昨日の夢

1/1
前へ
/41ページ
次へ

昨日の夢

翌朝、目が覚めると直美は、小平へ電話を掛けた。 「おはよう小平さん。出社する途中で私の家に寄って、ガラス像を持つて午後の1時半に八王子駅まで来て欲しいの。私の母に荷造りは御願いしたからお願いします。何かあったら電話下さい。」 直美は、俊太郎から貰った硝子の女像を弥生へ渡すつもりでいた。 弥生が、その像を持つのにふさわしいと思ったからである。 それもそうだが、本音は、その像を持っていないと不安が消えない。 弥生は、その像を見ただけで俊太郎の気持ちを察知するはずである。 「課長、お風呂行きますか!朝風呂なんて贅沢ですよね。」 木下と真田が、すでにお風呂セットを持ってスタンバイしている。 木下も真田も、思っている事は直美と一緒だった。 園芝弥生の気持ちである。 それを、いくら心配してみてもどうにもならない。 どうにもならないから気を紛らわす。 「そうね、さっぱりしましょう!」 直美達は朝風呂でさっぱりして朝食を済ませると、ロビーで守山を待った。 約束の時間にやや遅れて守山が現れると、 「守山さん!遅いですよ!」 普段なら、そんな事はあまり言わない真田ではあるが、直ぐに笑顔に戻ると、 「守山さん、おはようございます。今日は宜しくお願いします。」 守山は一瞬、申し訳なさそうな顔をしたが、誰もが気持ちが高揚している状態である。 取材用のワンボックカーに、直美達を乗せて、一路、八王子を目指した。 平日の中央道は、休日の様な渋滞は皆無である。 長野から山梨の観光地を通り過ぎると、都心への入口である八王子は目と鼻の先。 「どこかで食事しましょう。」 守山は、そう言うとサービスエリアに車を停めてレストランへ入った。 その頃、小平は直美の家に寄って、硝子の女像を受け取ると、電車で八王子へ向かっていた。 川越から八王子行きの電車に乗った。 直美の母親は、落としても大丈夫な様に緩衝材で覆ったと言っていたが、絶対に落とせない。 歩く時も電車に座る時も、バッグに両手で抱え込むようにして大切に持って八王子駅へ着いた。 約束の時間は午後の1時半。 ちょっと早いけど、昼食を済ませようと八王子駅ビルの食堂街に通じるエスカレーターに乗ろうとした時、ふと右側の通路を見るとその奥に、 喫茶Atorieと言う看板が目にはいった。 アトリエ! エスカレーターは、上へと昇る。 アトリエ!? 小平は、どこかで聞いた様な、もしかしたら! 園芝弥生さんの喫茶室! 小平は二階へ上がると、直ぐ様下りのエスカレーターへ乗った。 喫茶Atorieはシンプルな店構えで、なかの様子が外から良く見える。 カウンターが厨房を半円状に囲み、テーブルが10席位配置されている。 カウンターに数人、テーブル席は、半分位は埋っている。 平日の昼時、スーツ姿のビジネスマンが多い。 入口のメニューを見ると、軽食もある。 小平はAtorieへと入った。 「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」 若いウエイトレスが対応した。 小平は、ひとりである事を告げると、テーブル席へと座り、ナポリタンとアイス紅茶を注文した。 店内をぐるりと見渡したが、小平でも良く知っているルノワールの絵画と、バランス良く紫陽花の花が飾られているいるだけである。 違うのかも・・・ そう思って、運ばれて来たアイス珈琲に、シロップとミルクを流し込み、ストローでくるくるかき混ぜていると、 前列の男性が立ち上がり、雑誌を本棚に戻して店を出て行った。 小平は、その本棚に目をやると、もしかしたら、絵本があるのかも。 そう思った小平は、席を立つと本棚へ向かった。 新聞、週刊誌、コミック本など整然と置かれている。 あった!!数札の絵本が置いてある。 そして全てに作画、水本弥生と名前が記されている。 小平は、そのうちの一冊を席に持ち帰ると、最後のページを捲って著者と作画のプロフィールを確認したが、 名前と出身地、代表作の童話と絵本の作品名が書いてあるだけである。 表紙には、何とも愛らしい、きつねが、お寺のお供え物を口にして逃げたのだろう。後ろを振り返って、追いかけてくる和尚さんを見ている。 絵本なんて開くのは何年ぶりだろう・・・ どのページにも、そのお話がイメージ出来るように、弥生の挿し絵が愛らしく時にはリアルにページを飾っている。 ついつい、夢中になって見ていると、 「お待たせしました。ナポリタンでございます。」 小平は、絵本を脇に寄せると、 「みきちゃん、後はメイちゃんと一緒に御願いね。」 小平は、その声の主を確かめた。 和服をまとった背の高い、品の良い女性で、年の頃は五十代前半、いや四十代後半であろうか・・・ 小平と目が合うと、 「いらっしゃいませ、ごゆっくり。」 そう言うと、笑顔でゆっくりとお辞儀をした。 「承知しました。先生、行ってらっしゃいませ。」 ウエイトレスは、そう言った後、小平に向き直ると、 「お客様、その絵本の挿し絵は、今、お出掛けされたうちの先生が描いたものなんですよ。どうぞごゆっくり。」 そう言うと厨房へ入って行った。 紛れもない!あの人が水本弥生。 60歳を越えた年齢だと聞いていたが、とても若く見える。 そして上品で美人である。 食事を済ませると小平は、直美達と待ち合わせ場所である駅前のロータリーのコンビニの前に立った。 もう直ぐ約束の時間である。 今、自分が持っている硝子像がさっきの女性、どうしよう私がいちばん先に会ってしまった。 これから待ち合わせる直美達には内緒にしよう。 でも、素敵な方ですよ。とも言って安心させたい。 いや、人違いの可能性もある。そんな風にあれこれと考えていると、 一台のワンボックカーが、目の前に停まった。 「小平さん!」 助手席から直美が小平へ声を掛けた。 小平は大事に抱えたままで、開いたドアから後部座席へ乗り込んだ。 「課長、お持ちしました!」そう言うとガラスの女像を直美へ渡した。 直美は、ドライバーの守山を紹介すると、バッグをそっと開いて箱に入れられて緩衝材に守られた硝子の女像を取り出した。 皆の視線が一斉に注がれる。 素敵!綺麗!美しい!それは言葉では表せない程、素敵であり綺麗であり美しい。 ただ、ひとり、小平だけが似ていると言った感想を持ったがそれは内緒である。 「その像も美しいですけど、真田先生の会社の方は皆さん美しい女性ばかりですね。」 守山がそう言うと、 「それは、私も含めてですか?守山さん!」 真田の言葉に守山は、しばらく笑っていたが、 「勿論ですよ。真田先生は特に絵が素晴らしい。」 ??? 「もう直ぐですよ原田さん。頑張りましょう!」 守山は、そう言うとカーナビを確かめて車を停めると、携帯電話を取り出して電話を掛けた。 森山は電話を切ると近くの公園の脇に車を移動して、案内を待った。 しばらくすると「守山様ですか?」 若い女性が声を掛けてきた。守山は返事をすると、 「私、水本先生の助手で周防と申します。遠くから御苦労様でした。さっどうぞ。」 彼女は、そう言うと守山達を案内した。 いよいよである。 洋風の家並みが建ち並ぶ区画整理された道をしばらく歩くと、赤い薔薇の花が見事に咲き誇っている家の前で、案内人の周防の足が止まった。 彼女がエントランスのドアを開けると、 「ようこそお出で下さいました。」 淡い色彩が見事に調和された着物をまとって、その女性は玄関より現れた。 さすがの守山も、初老のおばちゃんが現れるものと思い込んでいたのであろう。驚きの表情は隠しきれない。 とても60歳を越えているとは思えない清楚で美人な女性である。 守山は、とりあえず相手が水本弥生である事を確かめた。 「アルプスタイムスの守山と申します。失礼ですけど水本弥生先生でしょうか?」 その女性は、軽く頷くと、 「水本弥生です。散らかっていますが、どうぞ中にお入り下さい。」 そう言うと弥生は中に入った。 案内人の周防が手を差しのべて、中へ案内した。 通された部屋は、落ち着いた洋室で、弥生が描いたと思われる水彩画が四方の壁に掛けられている。 「守山さん、若くて可愛いらしい女性が四人。どなたが真田さんですか?」 弥生はそう言うと、 「あらっ!あなたは、先程お店でお会いしましたね。」 小平はやや慌てたが、 「ナポリタン、とても美味しかったです。それから、きつねと和尚さんの絵本、楽しませて頂きました。」 直美も木下も真田も、一斉に小平を見た。 「水本先生、この方が真田愛先生です。」 守山がそう言うと、真田がお辞儀をして微笑んだ。 「あなたが真田愛さんね!あなたの安曇野の早春の風景画、あれはとても素晴らしいですよ!」 弥生は、笑みを絶やさない。 「あの絵は、私の師匠、水沢先生に随分とアドバイスを受けたんですよ。」 真田がそう言うと、弥生の表情が明らかに変わった。 「水本先生、私は風景画が苦手なんです。どちらかと言うと動きのあるものが好きなんです。私の師匠の水沢先生は、風景画が得意ですから、あの絵は、水沢先生の絵なんです。」 「真田さん、水沢先生・・・水沢、何とおっしゃるの?あなたの師匠さんは?」 真田が言おうとした時、 ドアがノックされ、周防がお茶を運んで来た。 この間は、弥生にとっても、直美にとっても張りつめていた緊張がほぐれて、ほっとする時間だった。 「アッサムには、ミルクですね!私の師匠も、この紅茶が好きなんですよ。」 真田は、ミルクをたっぷり入れながら言った。 明らかに、弥生の表情が変わって呆然としている。 「先生、先生!どうかされましたか?」 立ち去ろうとした周防が心配そうに声を掛けた。 我に帰った弥生は、「大丈夫、大丈夫です。」 授業が終わると近くの喫茶店で紅茶を飲みながら俊太郎は、必ずアッサムを注文するとミルクをたっぷり入れて飲んだ。 そして、世界の巨匠の絵を論じる。弥生は、そんな俊太郎が大好きだった。 「水本先生、私の師匠の名前は、」 真田が再び言おうとした時、 「俊太郎・・・水沢俊太郎ですね。」 弥生はそう言うとミルクをたっぷりと紅茶へ注いだ。 小平と木下は、下を向いたままである。 「そうですよ。私の師匠は水沢俊太郎ですよ!」 真田は、半泣きで言った。直美は弥生を見詰めた。 「私ね、真田さん。あの絵を見た時に俊太郎さんが描いた絵かなって思ったの。線路の脇にたくさんの水仙の花が描かれていたでしよ。彼は水仙の花が大好きでね。」 弥生の瞳から一筋の涙が流れた。 「そうです!あれは、先生が描いてみたらと私に・・・」 真田は、それ以上は喋れなかった。 「彼はお元気ですか?真田さん。」 弥生は、真田が泣き止むのを待って、そっと言った。 真田は、頷くと、 「好きですか?水本先生は水沢俊太郎を今でも好きですか?好きですよね!」 堪らなくなった真田はその言うと泣き崩れた。 直美は、弥生の次の言葉を待った。弥生は、紅茶は少し口に含むと、 「大好き!彼は、私に絵の素晴らしさを教えてくれた人だから。あの時代は戦争が終わって、世の中が急速に変わって行った真っ只中。彼はね、少しばかりのお金をせっせと稼ぐサラリーマンに成れる男ではない。アルプスの見える街で、ふたりで暮らそう!そう言って・・・」 弥生は、瞳を拭うと言葉に詰まったが、 「ずーっと、ずーっと、待ってるわ。今でも待ってる。」 「水本さん、私の話しを聞いて頂けますか。」 直美はそう言うと、俊太郎の甥である修一と、その家族との出会い。そして水沢俊太郎との出会い。真田愛、さらに会社との関連について、これまでの過程を要約して話した。 弥生は、皆に微笑みかけると、 「そうだったの。原田さん、おめでとう!それで可愛らしいお嬢さん達が皆で俊太郎さんを心配してここにいるのね。」 弥生は、木下、小平、真田、そして直美の顔を確かめるように見直すと、 「彼もひとりで居た事は、私にとっては朗報ね!そうじゃなかったら悔しいでしよ。」 そう言うと弥生は、少しだけ声を出して笑った。 直美が話してくれた、俊太郎の自分への気持ち。そしてひとりで居る事は、弥生にとっては、朗報等と言ったものではない。嬉しくて嬉しくて、どうしようもない。それを決定付けたものは弥生を想って削り出した硝子の女像である。 「水本さん、これを見て下さい。」 直美は、そう言うとバッグから箱を取り出して、そっと開けると、 緩衝材を取り除いて、弥生の目の前に置いた。 「これは、水沢俊太郎が、園柴弥生さんを想って創作した硝子像です。」 弥生は、その像を手に取ると、時には微笑み、時には悲しげな表情で、 見詰めるように見たり、目をそらしては、瞳を閉じる。 様々な俊太郎との思い出が、弥生の頭をめぐりめぐっていた。 「私ね、俊太郎さんとかけ落ちするつもりでいたのよ。親に話した所でどうにもならないと分かっていたから。でも、俊太郎さんは私の親の気持ちが痛いほど分かったと思うの。彼の親だって賛成なんかするはずはない。 私ね、俊太郎さんを説得したの。私が好きならば東京で会社勤めして普通に暮らそう!いくらだって絵も描けるし彫刻だって出来る。 でも、彼は首をたてにはふらなかった。私が悪いのよ、あんな事、言わなければ、あの人に黙ってついて行けば良かった。 でもね、あの人が居なくなってしばらくは、心が張り裂けるほど苦しんだわ。直ぐに後を追いかけて捜しだそうと・・・」 弥生は、直美に微笑み掛けるとさらに話しを続けた。 「でもね、これでやっと俊太郎さんは、心置き無く芸術に専念出来るって思ったの。そう思ったら私だって頑張るから、あなたに負けないって。ネットで調べて彼の活躍している安曇野へは何度も行きたい!彼に会いたい!って思ったけど・・・相手の気持ちが分からないのはやっぱり怖いでしょう。それに彼にとって迷惑ならば・・・」 そう言うと、弥生は目を閉じた。 「弥生さん、私の頭にあった疑問符がやっとなくなりました。水沢俊太郎に会ってくれますね!」 直美は、力を込めて言った。 「勿論、お会いしたいわ。」 弥生の言葉に、真田、木下、小平、そして守山も、一斉に笑顔になった。 「水本先生、それでは真田先生と並んで頂けますか、写真を撮らせて下さい。」 守山は、本来の目的である二人への取材を始めた。 直美は、バッグからスマホを取り出すと、安曇野の三枝へ電話を掛けた。 これまでの話しを伝えると、三枝は、どうしても弥生に会いたいと言って、これから八王子へ向かうと夫の芳樹を説得していた。その様子が可笑しくて直美はしばらく聞き入ったが三枝に軍配は上がった。 豊科インターから乗り、長野道、そして中央道を走れば3時間とはかからない。 時計を見ると時間は、午後の3時、遅くても夕方の6時には、ここへ来れる。 直美は、三枝の事を弥生へ話した。 彼女こそ、一番近くで俊太郎とふれあい、その明るさと素直な心の優しさは、凍り付いていた俊太郎の心を徐々に溶かして行った。 「それならば、夕食をご馳走しましょうか。その方から俊太郎さんの事を沢山伺いたいわ。皆さんもどうぞ。」 弥生は、嬉しかった。 それは、俊太郎の気持ちが分かった事もあるが、何よりも今、ここに居る直美達に俊太郎が想われ慕われている事である。 昨日も、一昨日も、夢に見た俊太郎との再会。 昨日の夢は、40年前に俊太郎が居なくなったあの日と同じ夢である。
/41ページ

最初のコメントを投稿しよう!

61人が本棚に入れています
本棚に追加