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第3話 揺り籠にまどろむ螺旋(2)
ハオリュウが案内されたのは、地下へと続く階段だった。
研究室があるに違いないと、ルイフォンが目星をつけていた場所である。
「殿下。こちらにはエレベーターはございませんが、いかがいたしましょう」
ちらりと、〈蝿〉がハオリュウの車椅子に目線を送る。面倒なことだ、との色合いが見て取れた。
この怪我の遠因が自分にあることを、〈蝿〉は知っているのだろうか。ハオリュウはそう思い、〈蝿〉のすました顔に、むっと鼻に皺を寄せる。
互いに初対面であるが、罠にはめた貴族が『藤咲』という名であったことを〈蝿〉は知っているはずだ。ならば、分かっているであろう。――ハオリュウに恨まれていることも。
しかしハオリュウは、すぐに表情を戻した。
この足は、ハオリュウの敗北の証だ。愚かさを、浅はかさを恥じるべきは、こちらのほうだ。
だから。
今度は、貴様の息の根を止める――。
心の中で宣告し、ハオリュウはにこやかな笑みを浮かべた。
「心配には及びません。こんなときのための彼ですから」
そう言いながら背後を振り返ると、敬愛する主人に仕える従者が如く、シュアンが腰から綺麗に一礼し、ハオリュウを抱き上げた。
まだ子供とはいえ、背の伸びたハオリュウの体が軽々と浮かんだ。中肉中背で、どちらかというと貧相に見える風体だが、現役の警察隊員であるシュアンは常人よりも遥かに鍛えているのだ。
ハオリュウの視界が広がる。憎き仇の顔が近くなる。
激しくたぎる血流――その源となる鼓動の高鳴りは、おそらくシュアンに丸聞こえだろう。
だが、そのシュアンの胸からだって、渦巻く怒りの脈動が轟いている。
ふたつの響きは重なり、共鳴する。
ふたりの瞳は、自然と〈蝿〉に向けられた。
高温すぎる星の光が凍れる青白さを持つように、熱く冷たい、ふたつの視線が〈蝿〉を射抜く。
「!」
ほんの一瞬であるが、見えない弾丸で撃ち抜かれた痕跡が、〈蝿〉の表情に現れた。
――ふたりが放ったのは、明確な殺意。
鷹刀一族の出身である〈蝿〉が、気づかないはずがない。
そして、荒事に慣れているはずの〈蝿〉に、刹那とはいえ、動揺を与えた。
今は、これでいい。
ハオリュウは意識を切り替え、シュアンと無言の呼吸を交わして先に進む。
カイウォルの手前、これ以上、〈蝿〉と関わるべきではない。足が悪いことを侮辱されて憤慨しただけだと、説明できる範囲内で手を引く。
とはいえ――。
ハオリュウは優雅に後ろを振り返り、まるきり悪意の感じられない声を響かせた。
「そこの研究員の方。私の車椅子を階下まで運んでください」
ハオリュウは貴族だ。このくらい当然である。
そんな不協和音を奏でつつ、一行は地下通路を行き、最奥の部屋の前にたどり着いた。
「こちらでございます」
〈蝿〉がそう言い、頭を垂れる。
カイウォルは鷹揚に頷き、楽しげにハオリュウを振り返った。
「私も、実物を見るのは初めてなのです」
そして、早く中へと〈蝿〉を促すが、〈蝿〉はシュアンを見やり遠慮がちに口を開く。
「殿下。ここから先は、お付きの者は……」
「構いません。彼は、ハオリュウ君の最も信頼する腹心の部下です。ここで締め出しても、あとで話がいくだけでしょう。無駄なことです」
カイウォルは流し目で、くすりと笑う。お見通しだと言わんばかりに。
ハオリュウは特に否定しなかった。するだけの意味がなかった。
「殿下がそうおっしゃるのなら……」
〈蝿〉は気乗りしない様子で扉を開く。
室内に足を踏み入れると、かすかな薬品の匂いが広がった。
黒い台の上に、さまざまな薬瓶、試験管やシャーレ、顕微鏡……。その他、ハオリュウにはよく分からない機械類が整然と並んでいる。
地下ではあるが、照明は明るい。床はぴかぴかに磨き上げられ、清潔感にあふれている。もっと禍々しいものを想像していたハオリュウは、軽い困惑に陥った。
しかし、〈蝿〉が奥から運んできた硝子ケースを見た瞬間、瞠目した。
「――!」
ハオリュウの隣で、カイウォルが満面の笑みを浮かべる。感嘆とも、愉悦とも、あるいは興奮ともいえる声を漏らす。
「ああ……、ちゃんとできていたのですね」
硝子ケースの中は培養液で満たされ、ゆらりゆらりと揺り籠に揺られるように赤子が漂っていた。赤子と呼ぶには少々、未熟な姿であるから、胎児といったほうが正しいのかもしれない。
ふわりとたなびく髪は、まだ産毛ではあるものの、きらきらと光を弾き……。
――白金に輝く。
カイウォルが満足そうに頷き、低く嗤う。
ちょうど、そのとき。
赤子が瞬きをした。
垣間見えた瞳の色は、澄んだ青灰色…………!
ハオリュウの体が、雷に打たれたかのように震えた。車椅子に座っていなければ、足をよろめかせて倒れ込んでいたかもしれない。
カイウォルの典雅な指先が、硝子ケースを指し示し、ハオリュウに紹介する。
「彼の名前は、『ライシェン』」
「『ライシェン』!?」
食い入るように、携帯端末を覗き込んでいたルイフォンは叫んだ。
隣にいるリュイセンも、ルイフォンと押し合うようにして、画面を見つめる。
映し出されているのは、ハオリュウの服に取り付けたカメラからの映像だ。監視カメラのない、地下の研究室からの情報である。
「『ライシェン』って、斑目の別荘で会った〈天使〉の女が、お前に向かって言っていた名前だよな? たぶん、セレイエの〈影〉だった女……」
リュイセンの問いに、ルイフォンは黙って頷いた。驚愕に、声がうまく出なかったのだ。
だが、衝撃はそれだけではなかった。
摂政カイウォルは、次のように続けた。
『この〈蝿〉が作った――次代の王です』
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