第3話 揺り籠にまどろむ螺旋(7)

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第3話 揺り籠にまどろむ螺旋(7)

 目の前が真っ黒になった。  異母姉は、貴族(シャトーア)という籠から逃したはずだ。すべての権利を失い、代わりに自由を得た。  たとえ生きていたことが知られても、『死者』である彼女には、なんの政治的利用価値もない。そうするために、わざわざ『殺した』のだ。  なのに何故、ここで彼女のことを口にする?  異母姉をどうする気だ――!?  ハオリュウの肌が粟立った。(こご)えるような恐怖に身を震わせる。だがしかし、腹の底からは、たぎるような怒りが噴き出してもいた。相反する熱を内包し、ハオリュウから表情が消えていく。  首筋がちくちくした。襟の裏が振動している。ルイフォンが合図を送っている。しっかりしろと言っている。それは分かった。分かったが、だから、なんだというのだろう?  ハオリュウの最も弱い部分がむき出しにされた。  心が闇に捕らわれる。  ――そのとき。  とん……、と。  背後から、ハオリュウの肩に重みが掛かった。  初めは単に、何かを載せられた、という程度のものであった。それが突然、強い力で鷲掴みにされた。 「!」  シュアンの手だ。  彼の手でありながら、ハオリュウの手にもなってくれると約束してくれた、『一発の弾丸の重さ』を知る手。服越しには分かるはずのないグリップだこまで、はっきりと感じられる。  背後の気配が揺れた。  車椅子の後ろにいるシュアンが、腰をかがめたのだ。そして、ハオリュウの耳元でそっと囁く。 「ハオリュウ様」  それだけだ。  ただ名前を呼ばれただけ。なのに、彼の声がハオリュウの弱い心を撃ち抜いた。  ハオリュウの肩が、びくりと跳ねる。シュアンはそれを確認すると、さっと前に歩み出て、カイウォルに向かってひざまずき、「カイウォル摂政殿下」と声を上げた。 「私のような者が大切なお話に割り込むこと、深くお詫び申し上げます」  シュアンは、額を床にこすりつけ、その姿勢でぴたりと動きを止める。 「私への処罰は幾らでもお受けいたします。ですから、どうか主人には(とが)のなきよう、恩情をお願い申し上げます」  チンピラ警察隊員から、切れ者の従者に変わったのは、外見だけではなかった。今のシュアンは、必死に主人を守ろうとする腹心の部下そのものだった。  ハオリュウは、信じられない思いで、シュアンの背中を見つめる。 「――殿下。なにとぞ、お聞きください」  床につけた顔を更に押し付けるようにして、シュアンは声を張り上げる。 「叶わぬ恋に絶望したメイシア様は、旅先の渓谷で――ハオリュウ様の目の前で、身を投げられました。ハオリュウ様がお止めする間もなく、あっという間の出来ごとでした。……ハオリュウ様は、あのときメイシア様をお助けできなかったことを深く後悔されています。それで、今もメイシア様のことを思い出されると、ご気分が悪くなってしまわれるのです」  そう言われて、ハオリュウは思い出す。  父と異母姉の死因は、家族水入らずの旅行で森林浴に行った際に、道に迷って渓谷に落ちた――というものだ。だが、これにはもっと詳細な設定がある。  警察隊が鷹刀一族の屋敷に押し入ったとき、事態を収拾するために、異母姉は大勢の前でルイフォンに口づけ、彼と恋仲であると宣言した。この件に関して、ハオリュウは無駄とは思いつつ、内密にするよう警察隊に圧力をかけた。  だが、人の口に戸は立てられぬ。いずれ噂は広まるだろう。  ならばと思い、ハオリュウはこの事実をもとに、もっともらしい筋書きを作り上げたのだ。  すなわち――。  身分違いのメイシアの恋は、結局、無理やりに引き裂かれ、終止符を打たれた。  その後、傷心のメイシアを元気づけるために、家族だけの旅行が計画される。しかし、それが更に彼女を傷つけ、彼女は旅行の最中に身を投げた。  その上、彼女を探そうとした父親も谷に落ちて亡くなり、ハオリュウは大怪我を負った――。  勿論、藤咲家としては、この醜聞は必死に隠している、という態度を取る。  しかし、こういった身分違いの悲恋の噂は、民衆にたいそう好まれ、まことしやかに語られながら広まっていく。そのうちに誰もが、メイシアは本当に亡くなったのだと信じ込む――という策だ。  ――動揺を見せるな。嘘をつき通せ。  シュアンの背中が、ハオリュウを叱りつける。  伏せられた顔は、誰にも見ることはできない。だが、一国の摂政を前にしても臆することなく、厚顔に嗤っているのが、ハオリュウには見えた。  ――しらばっくれろ。  軽い調子の声が聞こえ、薄ら笑いの吐息を感じる。  ――シュアン……!  ハオリュウは心の中で応える。  ――ありがとうございます……。 「殿下、お見苦しいところをお見せして申し訳ございませんでした。この者の言う通り、異母姉のことを思い出すのは、まだ辛いのです」  ハオリュウもまた、カイウォルに頭を下げる。  カイウォルは軽い笑みを浮かべると、緩やかに首を振った。 「いえ。私のほうこそ、無神経なことを言ってしまったようです。姉君を大切にしている君なら、女性の気持ちを理解できると思ったもので、つい……どうか、ご勘弁ください。――ああ、そこの彼も顔を上げてください」  拍子抜けするほど、あっさりとカイウォルは引いた。  シュアンが驚いたように体をぴくりと震わせたがのが分かったが、ハオリュウにはなんとなく読める。  カイウォルにしてみれば、『メイシアが生きていることを知っている』と匂わせるだけで、充分に脅しになるのだ。彼女に危害を加えられたくなければ従え――そういうことだろう。 「忠臣ですね。良い従者をお持ちです」  遠慮がちに(おもて)を上げるシュアンを見やり、カイウォルが呟く。その言葉は、ハオリュウには『彼に救われましたね』と聞こえた。  単なる嫌味だが、まったくもってその通りだ。ただし、シュアンは従者ではなく、大切な同志である。 「さて、ハオリュウ君。話を戻しましょうか。――君をアイリーの婚約者に、という話です」  カイウォルは、再び正面からハオリュウを見つめる。 「兄としては、あの子が望むように、あの子が夢見る運命の相手と出逢って、そして結ばれてほしいと思います。――ですが、あの子の結婚まで、もう時間がありません」  ハオリュウは頷く。  婚約の発表はとっくに済んでいる。このあと婚約の儀が執り行われ、ヤンイェンは正式に婚約者となる。そのころには、結婚式の日取りも決まっていることだろう。 「だから、あなたに婚約者になってもらいたいのです」
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