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第4話 響き合いの光と影(3)
今日が特別な日であることは、小さなファンルゥだって、ちゃんと知っていた。
なんと、この館にお客さんがやってくるのだ。
彼女がこの館に来て、もう二ヶ月以上経つが、こんなことは初めてだった。父親のタオロンは余計なことをあまり言いたがらなかったが、見張りのおじさんたちの噂話に聞き耳を立てていたから間違いない。
この部屋での生活は単調で、ファンルゥは退屈だった。絵本も玩具も、ちょっと素敵なお洋服だってそろっていて、とても満足しているのだが、だんだんと物足りなくなってきたのだ。要するに、飽きてしまったのである。
彼女が欲しいのは、素敵な『もの』ではなかった。彼女が求めるのは、『どきどき』と『わくわく』だった。
だからファンルゥは、今日は朝からずっと窓に張り付いていた。
いつ、お客さんが来るのか、分からなかったからである。
見逃したら、大変だ! ――そう思っていたら……たくさんの人が来た。
とても、とてもたくさん来た。次々に車が現れては、いろいろな人が館に入ってきた。料理人の格好の人もいれば、メイドの服の人もいた。
これでは、いったい誰が『お客さん』なのか、さっぱりだ。
いい加減、ファンルゥも疲れてきた。彼女の背丈では、窓の外を見るためには椅子の上に乗っかって、ずっと立ち続けていないといけなかったのである。
それでも、しばらくは足が痛いのを我慢していた。けれど、やがて車が一台も来なくなった。いくら待っても、何も来なくなった。それで終わりだった。
結局、お客さんは、『どきどき』でも『わくわく』でもなかったのだと、彼女は諦めた。そして、スケッチブックを出してきて、おとなしく絵を描き始めた。
――菖蒲の花の絵である。
まずは水色のクレヨンを取り出して、画用紙のお花畑に水を張った。それから、紫に持ち替えて、ぐるぐると花を描いていく。
少し前までのファンルゥは、菖蒲の花が水の中から生えていることを知らなかった。けれど今は知っている。
『本物を見てきた』からである。
勿論、〈蝿〉もタオロンも、ファンルゥを菖蒲園には連れて行っていない。彼女は、こっそり窓から部屋を抜け出したのだ。
窓枠までは高さがあったが、椅子を使ってよじ登れば足が届いた。そして、幸運なことに彼女の部屋は角部屋であり、雨どいを伝えば館の端に備え付けられた非常階段に降りることができた。
父親譲りの身体能力と猪突猛進さで、彼女は窓からの脱出に成功したのだ。
ファンルゥは、〈蝿〉に貰った、きらきらの石がたくさんついた素敵な腕輪のことも忘れてはいなかった。〈蝿〉は、タオロンには『内側に毒針が仕込まれています』と教えたが、ファンルゥには『部屋から出ようとしたら、凄い音が鳴ります』と説明した代物だ。
彼女は、賢い子供だった。
『凄い音が鳴る』のは、部屋の扉にセンサーが付いているのだと考えた。彼女は『センサー』などという言葉は知らなかったが、数少ない買い物の経験の中で、偶然、万引き犯と遭遇しており、店のドアがビービーと凄い音を鳴らしたのを覚えていたのだ。
部屋の扉は駄目。だから、窓から抜け出す。
それに、どうせ扉の前には見張りのおじさんがいる。
見張りはひとりだったり、ふたりだったりと時々変わる。そして、その中でファンルゥが『居眠りおじさん』と名前をつけたおじさんは、見張りの途中で必ず居眠りをする。扉越しだが、ぐうぐうと大きないびきを立てるので、彼女にはちゃんと分かっているのだ。
だから、居眠りおじさんがひとりで見張りのとき、彼女はずっと気になっていた菖蒲の花を見に行ったのだ。
水の中から花が生えていた。
ファンルゥには衝撃だった。庭いっぱいの大きな花瓶なのかと思って引っ張ってみると、根っこがしっかりと水底の土を掴んでいて、びくともしなかった。
大発見だった。
それ以来、お絵かきといえば、ファンルゥはいつも菖蒲の花を描いていた。
もしも、彼女の絵がもっと細やかなものであれば、父親のタオロンには外に出たことがばれてしまっていたあろう。
しかし、あいにく、彼女の絵は実に子供らしい、のびのびとした筆致をしていた。そのため、絵心のない彼女の父には、水中から咲き誇る菖蒲の花も、青空を漂う紫の風船も区別できないのであった。
ファンルゥが画用紙の半分ほどまでを、鮮やかな紫で咲かせたときのことであった。
不意に、外から車の音が響いた。
先ほどの車が最後ではなかったのだ。ファンルゥは、なんとなく気になって、窓の下に椅子を運び、飛び乗る。
黒くてぴかぴかの車が軽快にエンジンをふかせつつ、緩やかな坂を登ってきていた。近づくほどに大きくて立派なことが分かり、きっと特別な人が乗っているのだと思った。
ファンルゥは身を乗り出すようにして、じっと車を見つめる。
正面玄関の前で、車は停まった。前方のドアから運転手が降りてきて、車の後ろに回ってトランクを開ける。
次の瞬間、ファンルゥは「え?」と小さな声を上げた。運転手が折りたたまれた車椅子を出してきて、それを広げたのだ。そして、後部ドアを開け、中にいた人物を抱き上げながら車椅子に移した。
「!」
子供……だった。ファンルゥより、だいぶお兄さんではあったが、それでもまだ十五歳にはなっていないだろう。
ファンルゥにとって、車椅子とはお年寄りが使うものだった。老人以外なら、病気で動けない人なのだ。つまり、子供なのに車椅子に乗っている彼は、重い病気で苦しんでいる子に違いないのだ。
そのとき彼女は、はっと思い出した。
〈蝿〉は、凄いお医者さんなのだ。高熱で苦しんでいた〈天使〉のホンシュアは、〈蝿〉の薬であっという間によくなった。嫌な感じがするおじさんだけれど、腕は確かなのだ。
――あの子は、〈蝿〉のおじさんに病気を治してもらいに来たんだ……。
体が弱くて外に遊びに行けない子なのだ。きっと、今のファンルゥみたいに、いつも部屋に閉じ込められているのだ。菖蒲の花なんて見たことがないだろう。
ファンルゥは、自分こそが彼を励ましてあげるべきだと思った。彼に会って、菖蒲の花のことを教えてあげるのだ。
今日は特別な日だ。見張りのおじさんたちも部屋に籠もっている。きっと、怖い顔のおじさんに、彼がびっくりしないようにとの配慮なのだろう。だから、見張りはいない。
ファンルゥは描きかけの菖蒲の絵をちらりと見た。
これじゃ駄目だ、と思った。だからスケッチブックをめくり、今までで一番、上手に描けたお気に入りの一枚を選び、べりべりと破り取った。
切り取った画用紙をくるくると丸め、それではポケットには入らないことに気づき、広げてから改めて、彼女なりに丁寧に折りたたむ。絵が折れてしまうのは悲しいが、両手が空いていないと雨どいを掴めないのだ。
そして、ファンルゥは窓を飛び出した。
お気に入りの菖蒲の絵を、車椅子の少年にプレゼントするために……。
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