第1話 境界の日の幕開け(2)

1/1
前へ
/44ページ
次へ

第1話 境界の日の幕開け(2)

「――――!」  その瞬間、シュアンは、ひとことも発せなかった。  けれど、反射的に立ち上がっていた。  無意識に動いた自分に彼は驚きつつも、しかし、足は止まらずにハオリュウへと向かう。 「馬鹿野郎……っ!」  シュアンの口から漏れ出たのは、絞り出すような声だった。殴りつけるために振り上げたのであろう拳は、途中で力を失い、そのままハオリュウの肩に落とされる。 「馬鹿ではありませんよ。〈影〉のように、死んだほうがマシの事態は存在します。そうなったとき、僕が自分で自分を殺せるのなら良いのですが、今の話の前提は『僕が自分の意思を保てなくなったとき』です。だから、シュアン、あなたに頼みます」 「……」  シュアンは、凍りついたかのように動けなかった。 「あなたの手は、僕の手です。あなたが屍の山を築けば、僕の手が赤く染まる。――あの言葉を、忘れていませんよね? ……僕たちの関係は、そういう関係です」 「……っ」 「引き金を引けない僕の手の代わりに、あなたの手が引き金を引いてください。――いつだったか、レイウェンさんにも言ったことがあるでしょう? 『僕に必要な者は、僕に代わって殺せる者だ』と」  ハオリュウは、自分の肩に載せられたシュアンの手の上に、自分の手を重ねる。 「シュアン、あなたしか、いないんです」  異母姉のメイシアや、ルイフォンも、〈(ムスカ)〉の技術を警戒していた。おそらくは、ハオリュウと同じくらいに恐れていた。その気持ちはありがたかった。  けれど、ハオリュウは『自分も警戒している』と、言うわけにはいかなかった。言ったところで、なんの解決にもならないからだ。単に、異母姉に心配をかけるだけなのだ。 「僕が死んだときは、イーレオさんが、あらゆる方法で対処に当たると約束してくださっています」 「イーレオさんが……?」 「はい」  嘘ではない。  いろいろ思うところはあるようだったが、イーレオはすべて(はら)の中に呑み込み、ただ、ひとこと『任せろ』とだけ言ってくれた。 「だから、お願いします。もしものときは――」  そう言って、ハオリュウが念を押そうとしたときだった。  不意に、「きゃああっ!」という悲鳴が、部屋の外から響いてきた。  即座にシュアンが床を蹴り、扉を開く――! 「クーティエ!?」  レイウェンの娘のクーティエが、よろけながらも絶妙な具合に腰を曲げて踏ん張っている――という姿勢で、トレイを掲げていた。その上に載せられた、ふたつのグラスの中では、中身の茶が激しく踊っている。しかし、奇跡的に一滴もこぼれていないとう、素晴らしい運動神経であった。  そして、その後ろで、呆然とたたずむミンウェイ――。 「ご、ごめんなさいっ!」  叫びながら、クーティエは腰から体を曲げて、深々と頭を下げた。  ふたつに分けて高く結った髪が、髪飾りのリボンを中心にぴょこんと一回転するが、その衝撃にも茶は耐えた。 「ハオリュウが来たから、お茶を持っていこうとしたの。でも、ノックする前に、中の声が聞こえちゃって……、それで……」 「立ち聞きしていた、というわけだな?」  ぎろりと、シュアンが睨む。 「そ、その通りですっ! ごめんなさい! あ、でも、ミンウェイねぇは違うの!」  クーティエは、慌てたように首を振る。――その動きに合わせて、茶も揺れる。 「ミンウェイねぇは、あとから来て、立ち聞きしている私にそっと声を掛けただけなの! で、その声に私がびっくりして……」 「それで、あの悲鳴を上げたわけですね」  部屋の奥からハオリュウが問うと、戸口のクーティエは、よく見えるようにか、こくこくと大きく頷いた。  彼女の背後で、ミンウェイが申し訳なさそうな顔で「ごめんなさいね」と謝る。だが、その対象がクーティエなのか、ハオリュウたちなのかは、今ひとつ判然としなかった。 「私はユイラン様からのお使いで、『あとどのくらい、お話に時間が掛かるのか、訊いてきてほしい』と言われて来たのよ」  ハオリュウに衣装を着せるのを楽しみにしているユイランは、なかなか来ない彼に焦れて、ミンウェイに様子を見に行かせたらしい。 「状況は分かった。嬢ちゃんは聞いていて、ミンウェイは聞いてない、と。……嬢ちゃん、いつからいた?」  責め立てるようなシュアンに、クーティエは首を縮こめた上目遣いを返す。 「……『シュアンの悪人面は、地顔だから諦めるしかない』ってあたり……」 「誰も、そんなこと言ってねぇ!」  噛み付くシュアンに、ハオリュウは苦笑した。  近いやり取りはあった。実際、ハオリュウも、内心では同じことを思った。しかし、シュアンが叫んだように、口に出しては言っていない。 「まぁ、いい」  シュアンは、ふんと鼻を鳴らし、「ハオリュウ」と名を呼びながら、くるりと振り返る。 「俺の手は、お前の手だ。だが俺の手は、俺の手でもある。――俺の手はな、『一発の弾丸の重さ』を知っている。……それを、よく覚えておけ」  唐突に告げられたのは、先ほどの返事だった。  そして、解釈の難しい言葉だった。しかし、少なくとも、突っぱねられたわけではないことは伝わってくる。 「シュアン、感謝します」  ハオリュウの言葉に、シュアンは何も答えずに背を向けた。そして、おもむろに、クーティエのトレイからグラスをひとつ取り上げた。 「え?」  急に軽くなった腕への負荷に、クーティエが驚く。  けれどシュアンは、彼女の狼狽をまるきり無視して一気に茶をあおり、グラスを再びトレイに戻した。茶の分だけ軽くなったグラスの重さが、クーティエに返ってくる。 「嬢ちゃん、ご馳走様」 「えっと……?」  てっきり怒られるものだと思っていたクーティエは、狐につままれた気分だ。 「ユイランさんが待ちかねているようだから、あと十分で、俺はハオリュウを連れて行く。――それまでに、話を終わらせるんだな」 「はい?」  きょとんとするクーティエの背を軽く押し、シュアンは彼女を部屋に押し込んだ。 「ミンウェイ、行くぞ」 「緋扇さん? どういうことですか?」 「いいから、来い」  命令調でシュアンが言う。  ミンウェイは一瞬、きょとんとするものの、すぐに何かを察したようだ。美貌が輝き、この場にふさわしくないような緩んだ顔になる。 「ちょ、ちょっと! 緋扇シュアン! どういうことよ!」 「嬢ちゃん、聞いていたんだろ? だったら、あんたはハオリュウに言いたいことがあるはずだ。俺の話は終わったから、ハオリュウをあんたに譲る」 「え?」 「じゃあな」  シュアンは言い捨てると、ばたんと勢いよく扉を閉めた。
/44ページ

最初のコメントを投稿しよう!

13人が本棚に入れています
本棚に追加