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第1話 境界の日の幕開け(2)
「――――!」
その瞬間、シュアンは、ひとことも発せなかった。
けれど、反射的に立ち上がっていた。
無意識に動いた自分に彼は驚きつつも、しかし、足は止まらずにハオリュウへと向かう。
「馬鹿野郎……っ!」
シュアンの口から漏れ出たのは、絞り出すような声だった。殴りつけるために振り上げたのであろう拳は、途中で力を失い、そのままハオリュウの肩に落とされる。
「馬鹿ではありませんよ。〈影〉のように、死んだほうがマシの事態は存在します。そうなったとき、僕が自分で自分を殺せるのなら良いのですが、今の話の前提は『僕が自分の意思を保てなくなったとき』です。だから、シュアン、あなたに頼みます」
「……」
シュアンは、凍りついたかのように動けなかった。
「あなたの手は、僕の手です。あなたが屍の山を築けば、僕の手が赤く染まる。――あの言葉を、忘れていませんよね? ……僕たちの関係は、そういう関係です」
「……っ」
「引き金を引けない僕の手の代わりに、あなたの手が引き金を引いてください。――いつだったか、レイウェンさんにも言ったことがあるでしょう? 『僕に必要な者は、僕に代わって殺せる者だ』と」
ハオリュウは、自分の肩に載せられたシュアンの手の上に、自分の手を重ねる。
「シュアン、あなたしか、いないんです」
異母姉のメイシアや、ルイフォンも、〈蝿〉の技術を警戒していた。おそらくは、ハオリュウと同じくらいに恐れていた。その気持ちはありがたかった。
けれど、ハオリュウは『自分も警戒している』と、言うわけにはいかなかった。言ったところで、なんの解決にもならないからだ。単に、異母姉に心配をかけるだけなのだ。
「僕が死んだときは、イーレオさんが、あらゆる方法で対処に当たると約束してくださっています」
「イーレオさんが……?」
「はい」
嘘ではない。
いろいろ思うところはあるようだったが、イーレオはすべて肚の中に呑み込み、ただ、ひとこと『任せろ』とだけ言ってくれた。
「だから、お願いします。もしものときは――」
そう言って、ハオリュウが念を押そうとしたときだった。
不意に、「きゃああっ!」という悲鳴が、部屋の外から響いてきた。
即座にシュアンが床を蹴り、扉を開く――!
「クーティエ!?」
レイウェンの娘のクーティエが、よろけながらも絶妙な具合に腰を曲げて踏ん張っている――という姿勢で、トレイを掲げていた。その上に載せられた、ふたつのグラスの中では、中身の茶が激しく踊っている。しかし、奇跡的に一滴もこぼれていないとう、素晴らしい運動神経であった。
そして、その後ろで、呆然とたたずむミンウェイ――。
「ご、ごめんなさいっ!」
叫びながら、クーティエは腰から体を曲げて、深々と頭を下げた。
ふたつに分けて高く結った髪が、髪飾りのリボンを中心にぴょこんと一回転するが、その衝撃にも茶は耐えた。
「ハオリュウが来たから、お茶を持っていこうとしたの。でも、ノックする前に、中の声が聞こえちゃって……、それで……」
「立ち聞きしていた、というわけだな?」
ぎろりと、シュアンが睨む。
「そ、その通りですっ! ごめんなさい! あ、でも、ミンウェイねぇは違うの!」
クーティエは、慌てたように首を振る。――その動きに合わせて、茶も揺れる。
「ミンウェイねぇは、あとから来て、立ち聞きしている私にそっと声を掛けただけなの! で、その声に私がびっくりして……」
「それで、あの悲鳴を上げたわけですね」
部屋の奥からハオリュウが問うと、戸口のクーティエは、よく見えるようにか、こくこくと大きく頷いた。
彼女の背後で、ミンウェイが申し訳なさそうな顔で「ごめんなさいね」と謝る。だが、その対象がクーティエなのか、ハオリュウたちなのかは、今ひとつ判然としなかった。
「私はユイラン様からのお使いで、『あとどのくらい、お話に時間が掛かるのか、訊いてきてほしい』と言われて来たのよ」
ハオリュウに衣装を着せるのを楽しみにしているユイランは、なかなか来ない彼に焦れて、ミンウェイに様子を見に行かせたらしい。
「状況は分かった。嬢ちゃんは聞いていて、ミンウェイは聞いてない、と。……嬢ちゃん、いつからいた?」
責め立てるようなシュアンに、クーティエは首を縮こめた上目遣いを返す。
「……『シュアンの悪人面は、地顔だから諦めるしかない』ってあたり……」
「誰も、そんなこと言ってねぇ!」
噛み付くシュアンに、ハオリュウは苦笑した。
近いやり取りはあった。実際、ハオリュウも、内心では同じことを思った。しかし、シュアンが叫んだように、口に出しては言っていない。
「まぁ、いい」
シュアンは、ふんと鼻を鳴らし、「ハオリュウ」と名を呼びながら、くるりと振り返る。
「俺の手は、お前の手だ。だが俺の手は、俺の手でもある。――俺の手はな、『一発の弾丸の重さ』を知っている。……それを、よく覚えておけ」
唐突に告げられたのは、先ほどの返事だった。
そして、解釈の難しい言葉だった。しかし、少なくとも、突っぱねられたわけではないことは伝わってくる。
「シュアン、感謝します」
ハオリュウの言葉に、シュアンは何も答えずに背を向けた。そして、おもむろに、クーティエのトレイからグラスをひとつ取り上げた。
「え?」
急に軽くなった腕への負荷に、クーティエが驚く。
けれどシュアンは、彼女の狼狽をまるきり無視して一気に茶をあおり、グラスを再びトレイに戻した。茶の分だけ軽くなったグラスの重さが、クーティエに返ってくる。
「嬢ちゃん、ご馳走様」
「えっと……?」
てっきり怒られるものだと思っていたクーティエは、狐につままれた気分だ。
「ユイランさんが待ちかねているようだから、あと十分で、俺はハオリュウを連れて行く。――それまでに、話を終わらせるんだな」
「はい?」
きょとんとするクーティエの背を軽く押し、シュアンは彼女を部屋に押し込んだ。
「ミンウェイ、行くぞ」
「緋扇さん? どういうことですか?」
「いいから、来い」
命令調でシュアンが言う。
ミンウェイは一瞬、きょとんとするものの、すぐに何かを察したようだ。美貌が輝き、この場にふさわしくないような緩んだ顔になる。
「ちょ、ちょっと! 緋扇シュアン! どういうことよ!」
「嬢ちゃん、聞いていたんだろ? だったら、あんたはハオリュウに言いたいことがあるはずだ。俺の話は終わったから、ハオリュウをあんたに譲る」
「え?」
「じゃあな」
シュアンは言い捨てると、ばたんと勢いよく扉を閉めた。
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