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第7話 万華鏡の星の巡りに(6)
――――!?
菱形の刃の先が〈蝿〉の背中に届く瞬間、奴の体が素早く動いた。
「嘘だろ……」
ルイフォンの唇が、かすれた声を漏らす。
〈蝿〉は完全に無防備だった。
けれど奴は、刃の生み出す、かすかな風圧を感じ取った。
白衣の背中は、前へと向かう。
無我夢中で、倒れ込む。
「『ミンウェイ』!」
〈蝿〉は、硝子ケースごと『彼女』を抱きしめた。――飛んでくる凶刃から、最愛の者を守ろうと……。
その光景を、ルイフォンは呆然と見つめる。
白髪混じりの髪をかすめ、緩やかな曲線の軌道を描きながら、菱形の刃は静かに落下していった……。
失敗した。
まさかの出来ごとだった。
〈蝿〉の全神経は、『彼女』のみに向けられていた。ルイフォンの存在には、まるで気づいていなかった。
ただ、目の前に『彼女』がいたから。
だから、危険の気配を感じた瞬間に、身を挺して『彼女』を庇おうとした。
その行動が、毒刃からの回避に繋がった。
結果として、『彼女』が〈蝿〉を守ったのだ。
それは、切なすぎる〈蝿〉と『彼女』の情愛――。
「……」
ルイフォンは無意識に奥歯を噛みしめた。
――けれど、負けるわけにはいかない。
彼は、予備の刃を袖口に仕込む。そのとき、〈蝿〉がゆらりと体を起こした。
「鷹刀の子猫……」
長い白衣の裾を翻し、振り返る。
その顔は、まさに『悪魔』。禍々しく、妖しく。あらゆる憎悪を煮詰め、濃厚で純粋な『負』を極めたかのような、玲瓏な魔の美しさを宿している。
「『ミンウェイ』を争いに巻き込む貴様は、万死に値する!」
低い声を轟かせ、〈蝿〉はルイフォンの死出を宣告した。
背には怨恨の陽炎が揺らめいている。それは漆黒の翼にも見え、ルイフォンは、ごくりと唾を呑んだ。
このまま続けて二投目の刃を打ち込んだところで、〈蝿〉は必ずよけるだろう。だからルイフォンは、フェイクのためのナイフを構えた。一か八かの接近戦を挑むふりをして近づき、接触と同時に〈蝿〉の皮膚に直接、毒刃を叩き込む策だ。
――多少の怪我は、覚悟の上……。
ルイフォンは腰を落とし、力を溜める。それに合わせるかのように、〈蝿〉もまた無言で構えをとった。
水を打ったような静寂が広がる。
〈蝿〉は本来、戦う者ではないという。
だが体躯は、鷹刀の血族だけあって立派だ。気配に敏感で、身が軽く、体術にも優れている。病弱であった妻のために、体を鍛えることよりも、研究に勤しむことを優先しただけなのだ。
睨み合っているだけで、迫力に押される。〈蝿〉は徒手空拳。けれど、そもそも格が違う。
攻めあぐね、額に冷や汗を浮かべたとき、壁の姿見が、きらりと銀光を反射させた。ルイフォンの背後で、何かが光ったのだ。
「!?」
ルイフォンが反応するよりも早く、〈蝿〉の視線が動く。
ひと呼吸遅れて振り返ったルイフォンが見たものは、刀を振り上げ、一直線に〈蝿〉に向かって走るリュイセンの姿だった。
「タオロン!」
〈蝿〉は素早く、手駒の名を呼ぶ。
ことの成り行きに圧倒され、傍観者となっていたタオロンが、びくりと体を震わせた。
「娘が大切なら、小倅を殺せっ!」
その命に、タオロンは、心臓をえぐり抜かれたかのように愕然とする。
「殺れっ!」
「――!」
次の瞬間。
絶望をまとったタオロンが、リュイセンを追った。
しかし、それでタオロンの刀が、リュイセンの神速に届くはずもない。だから〈蝿〉は床を蹴る。倒れていた椅子を拾い上げ、化粧台の鏡に、思い切り叩きつける――!
殺意に満ちた〈蝿〉の手元から、高く澄んだ音色が響き渡った。
「!」
リュイセンの目の前を、粉々になった鏡の破片が流星となって飛んでいく。
襲いかかってくる鋭利な星屑を、一刀しか持たぬ『神速の双刀使い』は払いのける。
数多の光の欠片が、互いを映し合いながら散っていく。細やかな輝きは、まるで万華鏡。
そして――。
「すまん!」
タオロンの悲痛の咆哮。
光の乱舞に足止めされた主のもとへ、双刀の片割れが帰ってくる。背後から、運命の糸を断ち斬る刃となって……。
万華鏡の中を赤が散り、乱反射によって無限に広がっていく。
リュイセンの体が、崩れ落ちた。
タオロンの瞳から、透明な涙がこぼれ落ちた。
そのとき――……。
部屋中のすべての輝きを一点に集めたかのように……、金の鈴が煌めきを放つ。
烈風と化したルイフォンが、駆け抜けた。
菱形の刃を固く握りしめ、その手に全体重を載せ、全身全霊でもって〈蝿〉を貫く――!
「……っ!」
〈蝿〉の口から、鈍いうめきが上がった。
肉を裂く、確かな感触。反撃を警戒し、転がるようにして場を離れたルイフォンは、しかし、わずかに顔をしかめた。
本当は、脇腹を狙っていた。だが、すんでのところで体をひねられ、防がれた。
それでも〈蝿〉の腕には、長袖の上から、菱形の刃が深々と突き刺さっている。白衣の白が、血の赤で染め上げられていく。
そう。
リュイセンは陽動を買って出てくれたのだ。
正面から対峙するのでは、ルイフォンでは〈蝿〉に勝てない。だから、リュイセンが体を張って、〈蝿〉の注意を引きつけてくれた。あらかじめ打ち合わせておいたわけではないのに、ルイフォンには兄貴分の心が手に取るように分かった。
「こんなもので……」
〈蝿〉は腕に刺さった刃を引き抜き、途中で顔色を変える。
すぐさま白衣を脱ぎ、傷口を強く吸って、血を吐き出す。
「毒が塗ってありましたね?」
「答えてやる義理はない!」
叫びながら、ルイフォンは〈蝿〉にナイフで挑みかかる。せっかく打ち込んだ毒を、吸い出させるわけにはいかない。
倒す必要はないのだ。毒が回るまで、毒抜きをする暇を与えなければよい。
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