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第7話 万華鏡の星の巡りに(7)
ルイフォンは軽やかに〈蝿〉に飛びかかり、迎撃の蹴りを食らう前に、さっと距離を取る。その際、床に伏したままのリュイセンを、ちらりと見やる。
リュイセン……!
心の中で、ルイフォンは兄貴分の名を呼ぶ。
神速を誇るリュイセンなら、すんでのところで致命傷は避けられたはずだ。
だが、タオロンの本気の一刀は凄まじかった。傷は、かなり深いだろう。一刻も早く手当をしてやらねば、手遅れになりかねない……。
一方〈蝿〉は、毒抜きの作業を邪魔しては逃げ回るルイフォンに対し、苛立ちもあらわに舌打ちをした。
「タオロン、刀をよこしなさい!」
太い腕をだらりと垂らし、魂を抜かれたような状態のタオロンを怒鳴りつける。
ルイフォンは、はっと顔色を変えた。
貧民街で対峙したとき、〈蝿〉は双刀に近い形の、細身の刀を自在に扱っていた。ルイフォンなど足元にも及ばぬ使い手であり、死を覚悟したほどだった。
先にこちらの動きを止めてから、毒抜きに専念するつもりだろうか。
ルイフォンはそう考え、すぐに否定する。だったら、タオロンには『刀をよこせ』と言うのではなく、『ルイフォンを攻撃せよ』と命じればよいのだ。
困惑に、足が止まる。
その向こうでは、タオロンが、のろのろと刀を持つ手を上げていた。
〈蝿〉に向かって放り投げようとして、彼は、刀身から滴る血を目の当たりにする。軽いはずの双刀が、ずしりときたらしい。罪の重さを噛み締め、彼は巨躯を震わせる。
「タオロン!」
動きの鈍いタオロンを突き飛ばし、〈蝿〉が強引に刀を奪う。
まずい! と身構えたルイフォンの前で、〈蝿〉は双刀の刃を自分の腕にあてた。
「!?」
驚愕に見開いたルイフォンの瞳に、鮮血が映り込む。
〈蝿〉は、苦痛に顔を歪めながらも、毒に侵された自らの肉をえぐり取っていた。ぼたぼたと流れ落ちる血液が、豪奢な絨毯を穢していく。
「……」
ルイフォンは青ざめ、声を失う。
血みどろの腕を物ともせずに、〈蝿〉は、脱ぎ捨てた白衣を拾い上げた。刀で器用に切り裂き、止血用の紐を作る。上腕をきつく縛り、傷口には包帯のように巻きつけた。
その間、ルイフォンは、凍りついたように身じろぎひとつできない……。
処置を終えた〈蝿〉が、何ごともなかったかのようにルイフォンに声を掛けた。
「鷹刀の子猫。勝負です」
双刀の片割れを手に、〈蝿〉は嗤った。
出血はまだ止まっておらず、巻きつけた布に赤い色がにじんでいく。なのに、奴の口調には、どこか余裕があった。
本能的な危険を感じ、ルイフォンは、わずかに後ずさる。
「ですが、その前に質問です」
「質問?」
ルイフォンは眉をひそめた。
「私は気づいたのですよ。……あなたは、『ミンウェイ』のケースの設定を変更しませんでした。それは、何故ですか?」
「……え?」
思わぬ問いに、ルイフォンは虚を衝かれた。
操作パネルは、光の加減で見えにくくなっていただけだ。目を凝らすか、手で影を作ってやるかで読めるようになる。おそらく〈蝿〉は、ルイフォンが最初に投げた毒刃をかわしたあと、すぐに確認したのだろう。
しかし何故、今更こんなことを尋ねるのか……?
「適正値のままでした。――どうしてですか?」
重ねて問う〈蝿〉に、ルイフォンは戸惑いと苛立ちがないまぜになり、鼻に皺を寄せる。
「そんなの、当然だろ」
鬱陶しげに言ってから、これでは『悪魔』には分からないだろうと考え直し、ルイフォンは付け加える。諸々の怒りを込めて、高圧的に――。
「俺は、お前とは違って、悪人ではないからだ」
「なるほど。如何にも、あなたらしい答えですね」
〈蝿〉は、くっくっと喉の奥を鳴らした。
失血のためか、額が、頬が、透き通るように青白い。けれど、鷹刀の血族であることを如実に示すその顔が、壮絶までの魔性の美しさを放った。
ルイフォンの直感が、警鐘を鳴らす。――その先を言わせてはならぬと。
だが、遅かった。
「それならば――」
魅惑の低音が響く。
「タオロンの娘は、あなた方にとっても、充分に人質として有効――ということですね」
「!」
ルイフォンは息を呑む。
「違う……! ――俺は……!」
そのとき、途切れ途切れの声が、必死に割り込んだ。
「ルイ……、フォン……!」
床に伏していたリュイセンが、よろめきながら体を起こす。
「リュイセン!?」
兄貴分は重傷のはずだ。額には冷や汗がびっしりと浮かんでいる。唇の色は青みがかっており、黄金比の美貌には陰りが見えた。
なのに彼は両の足で、しかと立った。
「馬鹿野郎……! こいつの言葉に……、耳を貸すな!」
恐ろしい気迫がほとばしり、白刃が煌めく。
まばゆい銀光が勢いよく円を描き、華麗に舞い、〈蝿〉に斬りかかる。
「この死にぞこないが!」
〈蝿〉が、無傷のほうの片手で、双刀の片割れを振るう。
紫電が爆ぜた。
ひとつの刀を雷で双つに斬り裂いたかのような双子の刀。ふた振りの刀はぶつかり合い、再び、ひとつの影を形作る。
だがそれは、共にひとつの鞘に収まるためではなく、互いを滅ぼすため――!
「くっ……」
重傷を負っていたリュイセンが押される。
「リュイセン!」
ルイフォンはナイフを携え、〈蝿〉に向かって走り出す。
――刹那。リュイセンの絶叫が響いた。
「違うだろうっ!」
「え……?」
「逃げるんだ!」
耳を疑った。
兄貴分が何を言っているのか、理解できない。
「なんで……? まだ……、だって……」
リュイセンは重傷を負ってしまったが、ルイフォンはほぼ無傷だ。
それに対して〈蝿〉は、かなり失血しており、顔色が悪い。止血が必要であるし、完全に毒が抜けたかどうかも分からない。
「一度引いて、やり直せ!」
リュイセンが、撤退を判断した。
敗走を決意した。
「何故……?」
呟きながら、ルイフォンは気づく。
最悪の選択から、自分が目をそむけたことを――。
ファンルゥの命を盾に取られたら、ルイフォンとリュイセンも、タオロンのように〈蝿〉に逆らえなくなってしまう。
だから、逃げるしかない。
そして、重傷を負ったリュイセンは、逃げられる状態ではない。
つまり――。
「俺を置いて、逃げろ!」
リュイセンの腕は震えていた。
限界だった。
〈蝿〉が、にやりと口角を上げる。
そして。
リュイセンの肩から胸へと閃光が走り、一瞬遅れて、血の華が咲いた。
「ルイフォン、行け――!」
倒れながらも、リュイセンは〈蝿〉に足をかけて巻き込み、慌てる相手もろともに床を転がる。
「お前が無事なら、まだチャンスはある! 任せたぞ!」
心は、ここに留まりたいと叫んだ。
まだ何か策はあるはずだと訴えた。
ルイフォンが、くるりと背を向けると、一本に編んだ髪が大きく思いを薙ぎ払った。金の鈴が胸元に飛び込み、持ち主の心臓を打つ。
――リュイセンの持つ、天性の野生の勘は、決して間違えない。
自分の感情よりも、兄貴分の理性を信じた。
いつもと逆だ。
ルイフォンは、壁の姿見をナイフで割りながら、部屋をあとにする。
鏡の破片によって、少しでも、あとを追いにくくなればいい。――それは、ただの言い訳だ。
無性に、何かを粉々に砕きたかっただけだ。
銀色の欠片が飛び散り、光を跳ね返しながら乱舞する。
時々刻々と形を変えていく光の紋様は、まるで万華鏡を覗いているかのよう。
ひとたび崩れた形は、二度と戻ることはない……。
この館は、摂政が貴族を接待中だ。〈蝿〉の行動は制限されている。
廊下に出てしまえば、奴は派手に騒ぎ立てて追ってくることはできない。
――だから、逃げろ。
リュイセンの思いを抱き、ルイフォンは走る。
最後に見た兄貴分の顔は――。
満足そうに、微笑んでいた…………。
~ 第五章 了 ~
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