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第1話 境界の日の幕開け(3)
クーティエをハオリュウのいる部屋に放り込み、扉から充分に離れた廊下の端で、シュアンは立ち止まった。
「てっきり、緋扇さんは、クーティエのことを怒っているのだと思っていました」
シュアンに合わせるように歩みを止めたミンウェイが、綺麗に紅の引かれた唇を弓形に上げた。
楽しげな目元は、童心に返ったかのように輝いている。どうやら、ハオリュウとクーティエをふたりきりにしてきたことが、いたく彼女のお気に召したらしい。
「逆だ。むしろ俺は、あの嬢ちゃんに助けられたようなもんだ」
「そうなんですか?」
「ああ」
極限の事態に陥ったとき、シュアンの手は、迷うことなくハオリュウに向かって引き金を引ける。その自信はある。
ハオリュウ本人に頼まれていても、いなくても同じだ。
けれど、それを彼に伝えていいかどうかは、また別の話だ。あの危うい愚か者は、自分を大切にしなさすぎる。自己犠牲が大好きな馬鹿を、肯定するわけにはいかないのだ。
「嬢ちゃんが乱入してくれたお陰で、俺は台詞を考える余裕を貰えたのさ」
シュアンは、感謝を込めて微笑んだ。もっとも、クーティエ公認の悪人面では、顔を歪めた程度にしか見えなかったのは残念な事実である。
ともかく、ハオリュウのことはクーティエに任せておけばよい。そもそも、どんなにあがいたところで、もはや、なるようにしかならない。腹をくくって乗り込むしかないのだ。
そうなると、気になるのは〈蝿〉捕獲作戦のほうであった。
「……あんたが来たってことは、鷹刀の連中も到着したんだな」
思ったよりも時間が過ぎていたようだ。衣装係のユイランが焦れるのも当然だろう。作戦開始は目前だ。
シュアンは、じっとミンウェイを見つめた。
「ミンウェイ。鷹刀も、ハオリュウも、俺も……、今日という日を待ち望んでいた。けど……、あんたにとっちゃ、『永遠に来てほしくなかった日』だな」
「……っ」
今まで浮かれていた美貌が、見る間に笑みを失う。それはまるで、快晴の夏空が一瞬にして暗雲に覆われていく様に似ていた。
彼女が望むのは『穏やかな日常』。
『私……、〈蝿〉は、何処かに行ってしまえばいいと思っています! 二度と鷹刀に関わらないでほしい。そうすれば、鷹刀は〈蝿〉を殺さないですむ。――そんなふうに思ってしまっているんです……!』
――彼女は、そう言っていた。
「仕方ないわ……。どうしようもないもの……」
ミンウェイはうつむいて、途切れがちの声を漏らす。彼女が小さく首を振ると、波打つ黒髪が風を起こした。彼女らしい、穏やかで優しい草の香が流れた。
「そうだな……」
凪いだ目をするミンウェイに、シュアンはこの話題に触れたことを後悔する。
皆が勇んで〈蝿〉の捕獲に期待を寄せる中、ただひとりミンウェイだけが同じ気持ちでないことを、彼は知っている。
だから、ひとことでいいから、何かを言ってやりたかったのだ。
彼女の気持ちに寄り添ってやることはできないが、気持ちを理解していることだけは、伝えてやりたい。今日の到来を喜べないことで、彼女が罪悪感に見舞われる必要はないのだと、教えてやりたい。
しかし、いざ、この場に直面してみると、彼女の心を軽くするような聞こえの良い言葉など、偽善に思えてきた。そんな安っぽい優しさの押し売りなど、彼女にふさわしくない。
シュアンは視線を床に落とし、押し黙った。
ふたりの間に、沈黙が訪れる。
気まずい雰囲気になってしまった。彼としては、あと数分をこうして過ごすのも構わないが、彼女はそうではないだろう。仲良くハオリュウを待っている理由もないし、彼女は鷹刀の奴らのもとに帰そう。
彼がそう考えたときだった。
すぐ近くに、ミンウェイの逡巡の息遣いを感じた。疑問に思う間もなく、続けて発せられた「ねぇ、緋扇さん」という呼び掛けに顔を上げれば、そこには見たこともない表情をした彼女がいた。
「私、亡くなったお父様を『男として』愛していたんですって」
唐突な明るい声と、突拍子もなさすぎる言葉――。
「っ!?」
シュアンは、ミンウェイを凝視した。
明らかに作った顔と分かるのに、絶世の美女のいたずらめいた笑みは、幼い少女の無邪気さを兼ね備え、息を呑むほどに可愛らしく……。場違いを承知していても、彼は惹き込まれ、魅入られる。
「リュイセンにね、そう言われちゃった……」
溜め息混じりに肩を落とすと、いつものミンウェイに戻る。
「そのときは、なんて酷いことを言うのって、心の底から怒ったけれど……、でも、落ち着いて考えると、完全には否定できないんです……」
シュアンは、驚きの表情をとっさに隠した。
頭の中は真っ白だったが、表面上は平静を保ち、無理やりに言葉を紡ぎ出す。
「……そうか。……あんた、ずっとあの父親と一緒にいたんだもんな……」
「ええ。ずうっと……一緒だったわ」
少し、舌足らずにも聞こえる声で、ミンウェイは嬉しそうに頷く。
今度は、上辺だけの作り顔ではなかった。
彼女が笑っていることに、シュアンはほっとする。――複雑な気持ちを抱きながらも。
たくさんの人に囲まれ、愛されているのに、彼女は孤独だ。それは、あの父親のところに心を置いてきてしまったからなのだと、漠然と……理解してしまった。
「今、生きている〈蝿〉は、あんたが愛した『お父様』じゃない。だから……」
言葉が続かなかった。そんなことを言われて、ミンウェイが喜ぶとも思えなかった。
けれど、言いたかったことは伝わったらしい。
「……そうですね」
ミンウェイが微笑む。
華やかな大輪の花のようでいて、実は穏やかな月光の化身のような彼女。硝子細工のような儚さに、思わずシュアンの手が伸びる。
――だが。
彼女に気づかれる前に、彼は手を止め、固く握りしめながら下ろした。
彼の手は、引き金を引く手だ。
そして、そのまま。クーティエに約束した十分が経つまで、ゆっくりと時は流れていった。
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