第1話 境界の日の幕開け(4)

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第1話 境界の日の幕開け(4)

「ハオリュウ! たっ、立ち聞きして、ごめんなさい!」  クーティエが勢いよく頭を下げると、両脇で高く結われた髪が激しく跳ねた。彼女を追うように動いた髪飾りのリボンが、一瞬きらりと光沢を放ち……しかし、すぐにひらひらとした端を力なく垂らす。――彼女の心を示すかのように。 「とりあえず、こちらに来てください」  ソファーに座ったまま、ハオリュウは手招きした。  足の悪い彼としては自然な行為だったのだが、顔を上げたクーティエが「うん」と答えるのを見て、戸惑った。声だけは、いつも通りに、はきはきと元気であったけれど、彼女の目には脅えがあったのだ。  持っていたトレイをテーブルに置いたとき、グラスの中の茶の表面が揺れていたのは、彼女の所作が乱暴だったからではなく、彼女の手の震えを写し取ったためだろう。 「クーティエ、僕は気にしていませんよ」  目の前で立ち尽くしてしまった彼女に、ハオリュウは困ったように笑う。  けれども、彼女は視線を下げ、ふるふると首を振った。リボンが揺れ、髪の毛にじゃれつく。やがてその動きを止めたとき、彼女は顔を上げ、意を決したように口を開いた。 「ハオリュウ。さっきの話、本気……なの?」  強気の口調でありながら、クーティエの声は揺れていた。薄桃色であるはずの唇が、青ざめている。 「自分を殺してほしい、だなんて……。おかしいわよ! どうして、そんなことを言うの!?」  問い詰めるように、責め立てるように。可憐な顔を歪め、全身全霊で、彼女は叫ぶ。 「クーティエ……」  彼女の言いたいことは分かる。  確かに、ハオリュウがシュアンに依頼したことは、常軌を逸している。  けれど、恐れている事態が起きてしまったとき、シュアンが責任を感じないようにするためには、はっきり告げておく必要があった。 「ただの心構えですよ。――僕とシュアンは、大切な人を〈(ムスカ)〉に殺されたようなものですからね。その〈(ムスカ)〉のいる場所に行くとなれば、用心深くもなります。……何が起こるか分からない。そのくらいの覚悟はしている、というだけです」 「……でもっ! でも、でも……っ!」 「それとも、〈(ムスカ)〉のしたことを――〈七つの大罪〉の技術を……、目の当たりにしていないあなたは、あの卑劣さを信じられませんか?」 「……っ」  クーティエが息を呑んだ。  卑怯だな、とハオリュウは思った。こんな言い方をされれば、彼女は黙って引き下がるしかない。案の定、瞬きひとつできずに、唇を結んだままだ。  ハオリュウは罪悪感を感じつつも、ほっとする。  心配してくれるのはありがたいが、おかしいと言われても困る。シュアンへの頼みを撤回する気はないのだから。  そうして話を切り上げようとしたとき、ソファーに座っている彼の目の高さで、立ち尽くしたままの彼女の掌が握りしめられた。爪が食い込み、血管が浮き出る。 「……信じて……いるわよ。相手が卑劣なのも、分かっているわ! だって、ハオリュウの足は〈(ムスカ)〉のせいで……!」  クーティエは、整った眉をきゅっと吊り上げ、その下の目を大きく見開いた。睨みつけているのではない。浮かんできた涙をこぼさないようにと、必死にこらえているのだ。 「どうして! どうして、ハオリュウばっかり、こんな目に遭うのよ! 悔しい……!」  呟くように漏らされた言葉は、ハオリュウ自身が吐き出したこともないほどに重かった。他人であるクーティエが、彼以上に、彼のために憤っている。そのことに衝撃を受ける。  彼にしてみれば、足の負傷は過ぎたことだ。自分の判断ミスが起こした、自業自得。だから、運ばれたベッドの上では、怪我を嘆くよりも、この先ですべきことに思考を巡らせた。 「クーティエ……」  彼女のまっすぐな気持ちが、少し怖かった。  早く彼女を納得させて、この場を切り上げたい。ハオリュウは、そう思う。 「シュアンにお願いしたことは、本当に『もしも』のときの話です。今日の会食では、何も起こらない確率のほうが、ずっと高いんですよ。――僕はまだ、姉様の花嫁姿を見ていませんし、藤咲の絹産業を軌道に乗せている途中です。簡単には死ねませんよ」  ソファーからクーティエを見上げ、ハオリュウは目を細めた。優しい面差しは包み込むように柔らかく、穏やかな人柄だった彼の父そっくりだった。  しかし、その瞬間、クーティエの目が尖った。  明らかな怒りを示し、ハオリュウへと目線を下げる。そのはずみに……ぽろりと、涙がこぼれた。 「嘘つき!」  その叫びは、殺意に近い気迫をまとっていた。 「ハオリュウは、そんなことを思ってないでしょ! だって、今の顔、ハオリュウお得意の外面(そとづら)だもの!」 「え……」  はっきり、きっぱりと『外面(そとづら)』と言われた。あまりの予想外の言葉に、ハオリュウはしばし呆然とする。 「『もしも』が来たら、あっさり死んじゃうの! でも、ハオリュウは、それでいいと思っているから、緋扇シュアンに頼めるんでしょ!? ――メイシアのことも、お(うち)のことも、未練にならないの!」  拳を固く握りしめ、クーティエは言葉を叩きつける。 「だって、メイシアのことはルイフォンに託したし、曽祖父上にいろいろお願いしたって言っていた。私の父上にも、仕事のことを頼んだんでしょ!? そのくらい分かるわ! ――そして、仇の〈(ムスカ)〉は、ハオリュウの作戦のおかげで、もうすぐ捕まる!」  クーティエの顔は上気し、肩で息をしていた。それでも、彼女は止まらない。 「皆にお願いしてあるから安心しちゃっている、ってのが、今のハオリュウの状態よ! だから、殺してくれなんて、ふざけたことが言えるの!」  クーティエは、ハオリュウをまっすぐに見下ろした。  涙に潤んだ瞳であるのに、蔑むように冷たい眼差しで……。 「そういうの、私、大っ嫌い!」  クーティエは短く、そう言い放った。そして、嗚咽をこらえるかのように、ぐっと口を結ぶ。  ――彼女の言うことは、正しかった。  後顧の憂いをなくして、この会食に臨もうとしている。それは彼の立場からすれば必要なことで、糾弾されるようなことではないはずだ。 「嫌いと言われましても、私は貴族(シャトーア)の当主なんです。私にできる最善を尽くす責任があります。それをとやかく言われたくはありません」  無意識に、『僕』から『私』に切り替わった。  返した声は温度を欠いていて、ごく普通に話せば人当たりのよいはずの声質が、闇を宿す。  クーティエの顔が、一瞬、ひるんだ。しかし彼女は、ぎゅっと拳に力を入れて叫ぶ。 「――けど! ハオリュウは当主である前に、ハオリュウっていう、ひとりの人なの! それを忘れちゃ駄目なの! もっと自分を大切にしてよ!」 「ですが、私は……」 「ハオリュウ!」  反論しかけた彼を、彼女の声が鋭く遮った。 「――これを言うのは、ずるいと思う。でも、ハオリュウが、あんまりにもわからず屋だから……」  彼女は、大きく息を吸い込む。瞳いっぱいに、涙をたたえて。 「ハオリュウのお父さんが、命を懸けて助けようとしたのは、『藤咲家の跡継ぎの嫡男』? それとも、『藤咲ハオリュウ』?」  その問いかけは、まるで彼女の持つ刀。  穢れなき銀の煌めきをまとう、直刀が如く。彼女の声は深く、まっすぐにハオリュウを貫いた。
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