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第1話 境界の日の幕開け(5)
「お父さんが大切にしていたのは、どっち?」
言葉の上では、どこにも刃など隠されていない。けれど、ハオリュウは、はっきりと心臓に痛みを感じた。
あるはずのない傷を押さえ、胸に手をやる。
喉が、熱くなった。久しく、忘れていた感覚だった。
強い痛みの感情が、体の外へとあふれ出そうになる。
――そのとき。
思いつめたようなクーティエの声が聞こえた。
「……ごめん! ごめんなさい! ……言っちゃいけないことなのに!」
クーティエが、わっと泣き崩れた。ぽろぽろと、涙がこぼれ落ちていく。
光る雫に、ハオリュウの目は引き寄せられた。触れてもいないのに、彼女の涙の雨を浴びたかのように喉元の熱さは解かされ、それは穏やかな温かさとなって、体中に広がっていく。
ああ、そうか――と、彼は思った。
彼が外に出すべきものは、痛みの感情ではない。この傷をつけるために、まっすぐに、彼に斬り込んできてくれた彼女への――感謝だ。
ハオリュウは、ソファーの縁に手を掛け、はずみをつけるようにして立ち上がった。杖を使うべきだったかと途中で後悔しかけるが、必死に重心を移動させ、転倒を防ぐ。
「ハオリュウ!? 足! 足、痛くないの!?」
突然のことに、クーティエの涙が吹き飛んだ。彼女は慌てて、彼の杖になるべく彼の腕を取り、自分の肩に回そうとする。
しかし彼は、やんわりと断った。支えてもらっては格好がつかないのだ。
「クーティエ、ありがとう」
まっすぐに立てないハオリュウは、綺麗な礼の姿勢を取ることはできない。それでも、心を込めて彼女に頭を下げる。
「ハオリュウ?」
「……けど、ごめん。シュアンへの頼みは撤回しない。『もしも』のときに、僕が大切にしている人たちを傷つけるのは嫌だから。それは、『当主』としてではなくて、『藤咲ハオリュウ』の気持ちだよ。――認めてくれないかな?」
本当は膝をかがめて、彼女の目線に合わせて尋ねたい。けれど、不自由な足では叶わない。――この足が利かないことを、初めて悔やんだかもしれない。
「う、うん! それでいい!」
腫れた目で、クーティエが可憐に笑う。
「カイウォル殿下と――、『藤咲ハオリュウ』の戦いをしてくるよ」
ハオリュウは、好戦的な腹黒い笑みを浮かべる。
その表情に、クーティエは嬉しそうに頷いた。
「舞を贈るわ。武運を祈る舞よ」
彼女はハオリュウを座らせ、くるりと背を向けた。その拍子に髪が流れ、リボンが光沢を放つ。
「さっきから気になっていたんだけど、その髪飾りは……」
「気づいてくれたの?」
クーティエが再び振り返り、ぱっと顔を輝かせた。泣いたり、怒ったり、笑ったり。目まぐるしく変わる表情はどれも可愛らしいが、今の顔は格別だった。
「藤咲の絹――だね?」
「うん。ハオリュウが初めてうちに来たとき言ったでしょ? 『小物でいいから、庶民向けの商品を作ってほしい』って。だから私、祖母上に協力してもらって試作品を作ったの」
土台となる髪留めに、シルクサテンのリボンを巻きつけ、長く垂らしたシンプルな髪飾りだ。けれど、着用者に合わせて揺れる様は、独特の光沢と滑らかな布の動きが相まって、実に優美だった。
「友達に見せたら、『ちょっと高くても、特別な日のとっておきに、是非、欲しい』って」
「そうか。……嬉しいな」
ハオリュウは笑う。――心から。
誰かに託すのではなく、自分の目でこの先を見守りたい……。
絹と戯れる舞姫の姿を目に焼き付けながら、彼はそう願った。
「お召し替えが終わりましたよ」
ご機嫌なユイランの声が響き、皆が待っていた広間の扉が開かれた。すっかり装いを整えたハオリュウが、車椅子に乗って現れる。
普段はスーツ姿の多いハオリュウが、襟の高い伝統的な形式の上着に身を包んでいた。髪型は大きく変わっていないのに、どことなくさっぱりとしている。ユイランと仲の良い美容師が応援に来てくれたらしい。全体的に、大人びた雰囲気に仕上がっていた。
「ハオリュウ、格好いい……」
クーティエが、皆を代表して感嘆の声を漏らす。
「個人的な会食とお聞きしたので、堅苦しすぎる正装はかえって失礼かと思ったのよ。だから、襟の高さと胸元のデザインに遊び心を加えて、やや略式に仕上げたの」
ユイランが自慢気に解説する。ただ残念なことに、それを理解できたのは、この場にいる者のうちのごく一部のみであった。
「……で。…………あいつ……誰だ?」
ルイフォンが、隣にいたリュイセンをつつき、目配せで言葉をかわした。
「あいつ……、……しかないだろ」
「……だよな」
ふたりの視線の先は、ハオリュウの後ろ。車椅子を押してきた人物だ。
「ふふっ、緋扇さんよ。素敵でしょう!」
ユイランが夢見る乙女のように目を輝かせ、うっとりと手を合わせた。
いい歳した母のそんな姿に、リュイセンは思い切り顔をしかめたが、彼女の態度には納得せざるを得ない。――そのくらい、別人に仕上がっていた。
ぼさぼさだった髪は、整髪料で綺麗に撫でつけられ、オールバックに整えられていた。それだけで生真面目な人物に早変わりするのだが、運転手を兼ねていることを意識した服装が拍車をかける。
ハオリュウとは違い、こちらは正装であるらしく、高い襟の一番上までかっちりと留められたボタンが礼儀正しさを醸し出していた。三白眼の凶相は、運転手が好んで身につけるような薄い色の眼鏡で印象を和らげてある。余計な詮索を避けるためにか、拳銃を握る手にできるグリップだこは、白い手袋によって隠されていた。
不審がられず、軽んじられず。言うなれば『目つきの悪いチンピラ』が、『眼光の鋭い切れ者』に見事に化けていた。
「失礼だけど、いつもの緋扇さんだと、貴族の介助者としては、ちょっと……だったのよね」
ユイランは、いつの間にか現れていた友人だという美容師と頷き合う。長い付き合いらしいふたりは、見事なシュアンの出来栄えに、互いを称え合っていた。
彼女たちが面白がって楽しんでいたことは、シュアンの仏頂面が物語っていた。
そして――。
ルイフォン、リュイセン、ハオリュウ、シュアンの四人が、車に乗り込む。
いよいよ、作戦開始である。
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