淡い恋の味は、柚子はちみつレモンティー。

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 柚子はちみつレモンティーを頼んだのは、はじめてだった。このカフェにやって来たのも、随分久しぶりだ。あいつと離ればなれになってから、全く来ることはなくなってしまったから。あれからもう、三年は経っただろうか。 「おまたせしました。柚子をよくかき混ぜてからお召し上がり下さい」 「はい、ありがとう」  あれからカフェのスタッフも変わったらしく、持ってきた若い女の子は知らない子であった。キッチンの中には、見覚えあるスタッフもちらほらいるみたいだが。まあ、あれから年月も経ったのだから仕方がない。  立ちのぼる真っ白な湯気に鼻先を近づける。甘酸っぱい柚子の香りが、鼻の奥を優しく満たしていく。眼前に山吹色の花畑が広がっていくようだ。  僕はいつも、コーヒーだった。比較的どこにいってもコーヒーを頼むという、冒険心のカケラもない男だった。特に飲み物に対して、こだわりがないというのもあるが。  小枝のような形状のおしゃれなスプーンを手に取り、カップ底に沈めてくるくるとかき混ぜる。表面に浮かんでいる輪切りのレモンが揺れる。 『ちゃんと混ぜないと柚子だけ残っちゃうし、柚子の味がしないんだよね』  嬉しそうに手首をくるくるしていた美優。その微笑みを思い描く。あいつは、ここのカフェの、柚子はちみつレモンティーが大好きだった。  金色のスプーンを置くと、カップの取っ手を持ち上げる。琥珀色の液体が喉を通りぬけていく。柚子の独特の風味が通りすぎると、はちみつの甘さがやって来る。最後に、レモンの酸っぱさが舌の上に残った。甘くて濃厚なのに、爽やかな余韻が残る。不思議な飲み物だ、と感じた。 『最後に残った柚子を食べるのも美味しいんだよ』  すっかり飲み干してしまったカップ底に、スプーンを突き立て、美優は笑っていた。あいつはいつだって笑っていた。あいつといると元気をもらえた。だから、ずっと一緒にいたのだと思う。友情とも、恋情とも、違う関係性。僕たちはそんな曖昧な、でも深い絆みたいなもので繋がっていたんだ。柚子ティーなのか、はちみつティーなのか、レモンティーなのか。目の前に揺蕩う、この飲み物のような、そんな関係性だったのかもしれない。その時の僕はそう思っていた――。  あっという間に飲み干した曖昧な飲み物。花弁のようなカケラが、カップ底に残っている。柚子の果肉。スプーンにひとカケラ載せる。 『最後まで美味しいって、すんごい飲み物だと思わない?』  柚子の味が口の中に弾けた瞬間。可愛らしい笑顔も弾けた。 「あぁ・・・・・・すんごいな、美味しい・・・・・・」  涙で目の前が霞んだ。こんな所で男が泣いていたら恥ずかしいだろうが。そう思っても、喉から熱い何かがこみ上げてくる。目蓋の裏に、ぼんやりと蘇ってくる微笑み。 『これを飲むとあたたまるんだよね』と、むきたての卵みたいに滑らかな肌をほんのり赤く染めながら、笑う。いつも、僕の前であいつは、笑っていたんだ。 『美優・・・・・・』  涙を堪えながら、スプーンを口に運ぶ。濃厚な柚子の甘さが口内を駆けめぐる。この味は、恋の味だった。あいつが最後のひとカケラを、いつも僕にくれたんだ。はい、と差し出されたスプーンの前、僕が口を開くと、『なんかヒナみたいだね』って食べさせてくれて。その瞬間だけ、僕は鼓動が速くなった気がした。それが恋の味だなんて、気付きもしないまま――。 『いつかね、私が作った柚子ジャムで柚子はちみつレモンティー作ってあげる。一番に翔貴に飲んでもらいたいの』 『あぁ、約束な』  そう言って、あいつはフランスに旅立って行った。パティシエになるための修行だ。美味しい紅茶と、美味しいケーキが食べられるカフェをオープンさせるのが、あいつの昔からの夢だった。少し寂しい感じもしたが、あいつの夢を全力で応援したかった。だから、笑顔で見送った。あいつも『頑張ってくるから』と、全力の笑顔を返してくれたんだ。  あいつが旅立ってから、僕は心に空洞が空いたようだった。僕の毎日がバランスを崩す。仕事をしていても、何をしていてもアンバランス。バランスの取れていた透明な糸はたるんでしまい、引っぱっても、引っぱっても、ピンと張らない。片方の糸の先にいたはずの、あいつがいなくなったから。いつも引っぱってくれていた美優がいない。アンバランスになって、僕はようやく気付くんだ。 “美優がどうしようもなく好きだった”ことに――。 「あぁ、僕は本当にバカだな・・・・・・美優、ごめん」  スプーンをカチャリと置いて、透明な水を勢いよく飲んだ。淡い恋の味は、まだ喉に、僕の心に、ずっと残ったままだ。これはいつ溶けてなくなるのだろう。もう、きっと、届かないのに・・・・・・。  あいつは僕の知らない遠い場所で、忽然と姿を消してしまった。テレビのニュースがそう告げていたのは、あいつが旅立って一年ほど経った頃。有名な海外のパティシエが集まるパーティーの夜から、行方が分からないとのことだった。無事でいて欲しい。僕に二度と会えなくても、ただ生きていてくれればいい。それだけでいいんだ。  ガラスのコップをトン、と置く。  どうして僕はここに来たのだろう。あいつの好きな飲み物なんか頼んだりして。ただ、辛いだけだった。あいつの声を、匂いを、笑顔を、思いだすだけだった。  伝票を持って立ち上がると、「お客様」と声をかけられた。そのスタッフには見覚えがあった。あの頃、美優と通っていた時にいたスタッフらしかった。彼女が何かを差しだす。それは、花柄のブックカバーがかかった文庫本だった。 「あ、これ」  僕は思わず、それを受け取っていた。 「これ、あのお連れ様の本ですよね?」 「そうです」 「あー、良かった。ようやく渡せて。三年ほど前、よくお二人、ご来店されていましたよね」 「はい」 「お二人とも、よく本を読んでいらっしゃって。このカバーはお連れ様の本でしたよね。いつだかこれを忘れてしまった日があって。でも、きっとまた来てくれるだろうって思っていたから、その時に渡そうと思っていたんです。でも、それから来なくなってしまって。ずっと、私が保管していたんです。いつか来てくれるって、そう信じていたから。ようやく渡せて、本当に良かったです」  彼女は安心したような、朗らかな表情で笑った。僕は泣きそうだった。本を掴んだ手のひらが、小刻みに震えた。あいつが帰ってきたような感覚がする。 「ありがとうございます。きっとあいつも喜びます」  僕は会計を済ませ、本を胸に抱えながらカフェを後にした。吹き込んだ冷気が、身体の表面を撫でていく。寒いはずなのに、身体の芯はぽかぽかしている。柚子はちみつレモンティーを飲んだからだろう。顔を上げると、柚子の色に似たイチョウ並木が立ち並んでいた。空いていた木製のベンチに腰をおろす。足元には、美しい黄金色のじゅうたんが広がっている。 「美優・・・・・・」  そう呟いて、本のページをぱらりと捲る。ページの隙間、細く折りたたまれた紙切れが挟まっている。何だろう・・・・・・栞? 指先でそれを、そっと広げた。 “翔貴へ。 口では言えないから手紙にした。フランスで頑張ってくるから、それまで彼女を作らずに待っていてほしいの。私はずっと、あんたが好きだった。あんたは友達だって思っているかもしれない。でも、私はあんたと恋人になりたい。何年も待たせるな!って怒るかもしれないね。でもね、ちゃんと一人前になってからあんたと付き合いたい。だから、待っててくれないかな。じゃあ、頑張ってくるね!  翔貴、大好きだよ。  美優より” 「あは、こんな大事なラブレターを忘れるなんて・・・・・・あいつは、本当に、ドジなやつだなぁ・・・・・・。美優、やっぱり、お前に会いたい。どこに行ったんだよ? 今すぐ会いに来てくれよ・・・・・・お願いだ」  こぼれ落ちた涙が、ブックカバーに濃厚な斑ら模様を描いていく。心の中にはまだ、淡い恋の味が漂っている。 end
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