26 老翁と労働

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26 老翁と労働

 幽霊か! とあせる僕に、黒い影が声を発した。 「……もういいですよね」  ボソリと呟かれた声は、悲壮感に満ちている。 「はい?」  意味がわからず問い返した。 「もう……いいですよね」  何が?  暗闇で目をこらすと、次第にその姿が見えてくる。声の様子から、どうやら目の前に立っているのは、ジッドさんのようだと気がついた。  よかった。生きている人間だ。  ジッドさんは幽霊のような、震え声で言った。 「あなたがきたんだし……もういいですよねぇ」 「…………はぁ」  意味がわからなかったが、とりあえずうなずく。一体どうしたというんだろう。  僕が唖然としていると、ジッドさんと思われる影はスウッと動いて、あいていたドアから廊下に出ていった。 「……何だ?」  今のは。  目を瞬かせてドアを見つめるが、ジッドさんが戻ってくる様子はない。僕は椅子に座ったまま、奇怪な恐怖に動けなくなり、そのまま夜明けまで一睡もせずにじっと固まっていた。何が起きたのか理解するには、闇は深すぎた。  やがて早朝の鶏がどこかで軽快に鳴くと、僕は立ちあがり鎧戸をあけた。すると夜明けの青白い光が室内に差しこんでくる。部屋の中に変化はない。ジッドさんはただ、僕の部屋にやってきて不可解な言葉をこぼしていっただけなのだ。 「何だったんだ、あれは」  廊下に出て周囲をうかがうが、そこには誰もいなかった。警戒しつつ厨房へいくがそこも無人だ。竈に火も入っていない。 「ジッドさん、どこいったんだろ」  もしかして職場の悩みを僕に打ち明けにきたのかな、と心配しつつ食堂や厨房をウロウロしていたら、いきなり大声が聞こえてきた。 「ジッド! どこだ!」  鶏より元気なエビザ召喚師の声だ。 「ジッド! 早くこい!」  少し待ったが、ジッドさんが答える様子はないので、僕は召喚師の部屋に向かった。ドアをノックしてあけると、ジッドさんと勘違いしたのか「遅い!」と怒鳴られる。 「ジッドさん、どこにもいませんよ」 「何だ、お前か」  ベッドに腰かけた夜着の召喚師が、僕を見て不機嫌そうな声を出した。 「呼んできましょうか。何かあったのかもしれないし。ジッドさんの部屋はどこですか」 「奴は儂と一緒にこの部屋で寝ておる」 「え?」  見ると、小さなベッドが部屋のすみにある。しかしもぬけのからだ。 「……逃げたか」 「ええっ」  まじで?  召喚師はヨタヨタと立ちあがると、近くにあった車椅子に手をかけた。危なっかしかったので、僕は進みよって車椅子を支えた。難儀しながら座ると、老召喚師が「ふう」と声をもらす。 「ジッドさん、逃げたんですか?」 「ああそうじゃろう。これで十八人目だな」 「十八人目」
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