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「ここが美術館……、緊張します」
平日だからか、館内は耳が痛くなるくらいに静かだった。
「僕だって。美術館なんか初めてだ。よかったのかな、仕事帰りのままの汚い格好だけど」
美術の教科書に載っているような立派な絵画が展示する中を怖々歩く。ガラスケースに入っていない、剥き出しの絵もある。緊張して額縁が豪華なことしか頭に入ってこない。しかも、飛び飛びに置かれた椅子に座る暗い色のスーツの女性たちにずっと見られている気がする。気のせいだろうか? 身が縮む心地がする。
(僕みたいなのが、こんな可愛くて若い子と一緒なんてなぁ。絶対怪しまれてるよ)
ヒヤヒヤとソワソワで頭がいっぱいになっていると、少女が健の腕にさっと腕を絡めてきた。
「ワッ」
予想外のことに驚いて声が出る。椅子の女性が唇の前に人差し指を立てた。(うっ、怒られた!)健がペコペコ頭を下げていると、スルリと下がった少女の手が健の手を握りしめくる。誇張ではなく、全身の毛穴から変な汗が吹き出すのを感じて健はその場で硬直した。
「僕さん、早く絵のことを教えて」
「僕さん?」
目をパチクリさせると、少女は焦ったそうにトンと床の絨毯をつま先でついた。
「あなたの名前知らないもの。早く。どんな色? 何が描いてあるの?」
「ま、待って。えーと、僕は浅井健。それから君の右手にあるこの絵は……」
「私は、白鳥舞。絵の近くにある解説文も読んでね。で、健にはこの絵がどう見る? 好き? 嫌い?」
「好きか嫌いかも言うの? 僕の感覚だろ」
「見えないから。あなたの目を通してでしか絵のことを知れないんだもの」
(面倒な子に関わっちゃたなぁ)
今頃は自分の部屋で、残した家事を済ませるか、ごろ寝でもしていたはずなのに。
内心ため息をつきつつ、舞の顔を見ると、頬が紅潮し見えないはずの目を一生懸命見開いている。彼女の表情を見たら、急に(なんとかこの子の願いを叶えてあげたい)という気持ちが湧き上がってきた。
不思議な子だ。目が見えないのに、絵を見たい……知りたいと言う方が正しいのだろうか……なんて。
健がやる気になったとはいえ、目の前の絵は芸術品で、とても一言では説明できない。言い表す言葉を一生懸命考える。頭が痛くなってきた……。フロアを回り終え、美術館を出る頃には健はヘトヘトになっていた。
建物を出たところで、
「今日はありがとう」
と言われて、(ようやくお役御免だよ)と一息ついたら、
「残念、一階だけしか回れてない。二階にも展示品があるのに。また今度付き合って、ね? 健さん」
と、にっこりされ、健は、
「……勘弁してくれ」
と、天を仰いだ。
とにかく少女がわかる場所まで送っていこうと歩道を歩いていると、黒塗りの会社がハザードを点滅させて二人のすぐ横に止まった。慌ただしく車から降りた中年の女が、舞に駆け寄り彼女の手首を掴んだ。
「ようやく見つけた! 叔母さまが心配されていますよ。さ、帰りましょう」
車の中に引き摺り込む勢いの女を、舞が制する。
「待って、この人にお礼を」
胡乱な目つきになった女が、ジャケットの内ポケットから財布を取り出す。「待って」と、舞が女の腕に触りその先にある財布に触れ、眉を顰めた。
「お金を渡してはいさよなら? この人は道に迷った私を、仕事中にもかかわらず助けてくれたの。そのお礼をお金で済ませたなんて世間に知れたら、誹りを受けるのは父の会社よ?」
慇懃無礼だった女の顔つきが揺らいだ。(もう退勤してたから仕事中じゃないけど)と、思ったが黙っておく。こうして、健は舞とともに、この先二度と乗ることなんてないだろう、高級外車に乗り込んだ。
行き着いた先は、ドラマの中でしかお目にかかれないような洋風の立派な豪邸だった。
「死んだ父は白鳥テクノロジーの社長だったの。この家は懐古趣味の父の好みなの。残念ながら私にはその良さが実感できないけれど」
「CMで見たことあるよ。君、お嬢様だったんだね」
「そうね。でも社長令嬢だったのは昔の話」
と、舞が肩をすくめる。
「父は昨年亡くなったの。母は私が小さい頃に」
「えっ、じゃあ君はこの大きな家に一人きり?」
「いいえ、今は叔母が一緒に住んでいるの」
二人が大きなリビングに入っていくと、待ち構えていた様子で三十代だろうか舞にどことなく似た女が二人を出迎えた。
「舞、心配したのよ」
「ごめんなさい、叔母さん。こちら、今日とてもお世話になった浅井さんよ」
健は舞に紹介され頭を下げたが、舞の叔母は気づかなかったのか二人にソファを指し示し自分は先に腰を下ろしていた。
叔母が背を向けた一瞬、舞はベェと彼女に舌を突き出して見せた。
舞がすまし顔で叔母の隣に座った。健は笑いを噛み殺して対面に座る。
舞の態度からして、この叔母というひとは故意に自分の挨拶を無視したのだろう。健が深刻に受け取らずにすんだのは舞の明るさのおかげだった。
それにしてもすごい。舞は気配と触覚と聴覚だけで周りの様子を感じ取っているようだ。
二人がソファに座るなり叔母は、
「舞ったら、今日は病院に行く日だったでしょ」
と、舞を責めた。
「ごめんなさい。そういう気分じゃなかったの」
「大冒険だったみたいね」
「そうなの。今日は最高の日だったのよ。浅井さんのおかげ。だからまた……」
「この子、十三のとき交通事故に遭ってね。直後はなんともなかったのに、後になって目が見えなくなった。母親も亡くなっていたから兄は憐れに思って甘やかしたのね。だからかしら。わがままに育って」
舞の叔母が彼女の言葉に被せるようにして、健に向かって言う。
「叔母さま!」
会話を無視された舞が抗議しようとする。
「舞は疲れたでしょ。部屋に下がりなさい」
「叔母さま!」
叔母に全く相手にされなかった舞は、健に会釈してリビングを出て行く。叔母の態度にショックを隠しきれない様子の舞と同様、健もまた衝撃を受けていた。
「交通事故ですか……」
呆然と呟く健に、舞の叔母は怖いくらいの無表情で席を立った。
「姪がお世話になりました。これはお礼です。少ないけど取っておいて」
健の足元に封筒が放られる。封筒からはみ出た札を見て健は拳を握りしめた。
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