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3
自分の部屋に帰った健は、開いたままだったカーテンを乱暴に閉めるとベッドにゴロリと仰向けになった。
「馬鹿にしやがって」
つぶやきに力はなかった。横向きになるとローテーブルの封筒から覗く一万円札と目が合う。数えていないが多分十枚かそこらだろう。
――あなたのこと、うちに着くまでに調べさせました。まさか舞の事故の加害者と一緒だったなんて。
――あの子の目は、あなたのせいです。二度と会わないで。
――慰謝料? いりません。月々送ってもらっているようですけど、あんなもの雀の涙、子供のお小遣いにもなりませんもの。
舞の叔母に言われたことを思い出し尽くすと、今度は元気を失って自分の部屋へ行った舞の背中が頭に浮かんでくる。
(そうだ、腹を立てていいのは僕じゃない。彼女なんだ)
……もう、会わないようにしよう。
と、健は決意した。
翌日、遅番で出勤すると、健は店長に呼ばれた。
「浅井、警察の人」
「俺に、ですか?」
(まさか、あの叔母さんの嫌がらせか?)
内心ビクつきながら聞くと、
「知らないか? 昨日、近くで殺人事件があったんだ」
と、店長が言う。殺人? 驚いていると休憩室にスーツの男がやけにキビキビと入ってきた。
「昨日は早番で帰ったそうですね」
「はぁ」
「事件があったのはそのころでして。帰るとき、怪しい人物を見かけませんでしたか?」
「いえ、全く」
舞の顔が頭をよぎる。違う! 彼女はそんなことしない。刑事は探る目つきで健を見ると、
「そうですか。何か思い出したらこちらまでご一報ください」
と、帰っていった。
どんよりしながら腰にエプロンを巻き休憩室を出ると、いつ来たのか、厨房に続く通路に白杖を持った舞が立っていた。
(俺に会いにきた?)
と考えると、抑えきれないものが込み上げてくる。
健は唇を噛んで彼女の前を歩いた。
(気づかないさ。どうせ見えていないんだから)
あと一歩で通り過ぎる、そう思ったとき、舞がサッと健の腕を掴んだ。舞の手が健の腕から手首、手首から手のひらを確かめるように触ってくる。
「やっぱり、健さん!」
と、言い当てられ健は思わず声を上げていた。
「なんでわかる?! ……あっ」
口をつぐんだが、もう遅かった。舞の表情がパァッと明るくなる。
「ふふっ、私の手は目の代わりをするの。前に言ったでしょ」
ペロリと舌を出す仕草がまぶしい。
「今日も一人で来たのか?」
「今日はお付きの人に、外で待ってもらっています」
ニコニコ言う舞を見ていると、胸の奥のモヤモヤが解けていく気がした。不思議な子だ。一緒にいると心が温かくなる……。立ち尽くす健に、舞が突然ペコリと頭を下げた。
「ごめんなさい、叔母が失礼なことして」
「顔を上げて。叔母さんのしたことは、もういいんだ。それに、お金はいくらあっても困るもんじゃないしね」
「良くない! 健さんの真心を踏みにじったみたいで……私は嫌」
拳を握り悔しげに舞が体を震わせる。昨日会ったばかりだというのに、健はすっかり舞を気に入ってしまっている。健の感じた悲しみや怒り、屈辱を、
(この子はわかってくれている)
と、胸が熱くなったからだ。
「だから私反抗するの。健さん、また美術館に付き合って。ね? いいでしょ」
「ダメだ」
「えっ」
「舞ちゃん、昨日君と一緒に行ったのは、一度きりの親切だ。なんていうか、そう、気まぐれだよ。君みたいな子と俺とじゃ釣り合わない」
「私、また一緒に行くって決めていたのに」
泣きそうな顔をされると、こっちまで泣きたくなる……。健は自分を励ましてことさら冷淡に言った。
「今日僕は遅番勤務で、閉店まで仕事なんだ。片づけしたら店を出るのは0時近く。美術館はもう閉まってる。一緒には行けない」
「じゃあ、明日は? 明後日、来週はどう?」
「とにかく、君はもう帰ったほうがいい!」
舞の手を掴んで店の外へ連れ出すと、ちょうどそこにさっきの刑事がいた。
ドキリと立ち止まる健に、異変を感じた舞が「どうしたの?」と聞いてくる。
「刑事だよ。昨日、殺人事件が近くであって……聞き込みに来たんだ」
健は刑事の視線を鬱陶しく思いながら舞に小声で返した。昨日、事件のあった時間に舞が健と一緒だったと知れば、刑事は舞にもあれこれ聞くだろう。健は舞に余計なことに関わり合わせたくなかった。
「私の手についていた血って……。もしかして私、犯人とぶつかったの?」
「そんなわけないだろ。そんな、ドラマみたいなこと」
「でも」
小声で言い合う自分達を刑事が気にし始めている。健は焦った。
「とにかく、もうここには来ないでくれ。お願いだから」
「お願い? だったら、私のお願いも聞いてくれるわよね?」
と切り返され、健は「勘弁してくれ……」と天を仰いだ。
翌日、健は意志の弱い自分を呪っていた。なぜなら、結局また、前言った美術館に舞と一緒に来てしまったからだ。
実は今日は店の定休日で、恋人も友人もいない健はびっくりするくらい暇なのだ。食い下がる舞にどうしても嘘を突き通せなかった……。
今日も舞は、見えない目を一心不乱に絵画へ向けている。まるで絵に噛みつこうとしているように。それで気づいた。健のつたない説明を聞いている間、舞の手がまるで絵筆を動かすような動きをすることに。
「君は、絵を見たいんじゃない。描きたいんだね?」
つい、思ったことが口をついて出る。舞の両目からハラハラと涙が溢れ落ちた。
「二年前、私、事故に遭ったんですけど……」
(あぁ、知ってる)と、健は心の中で叫ぶ。
「お医者様から言われました。脳内に溜まった血を取り除けば、目が見えるようになるかもって」
「お医者様も叔母さまも手術をしろって。でも私怖い。だって脳よ。髪だって剃らなきゃいけないし」
頬を膨らませる舞に、健はたまらず吹き出した。
「可愛い尼さんになりそうだ」
「真剣に悩んでるのに!」
「ごめん。僕らは知り合って間もないけど、舞ちゃんが絵を大好きってことは知ってる。そして、君の本当の願いも」
「俺が君と同い年の頃、君みたいに夢中になれるものがあったらなって思うよ。えぇと、これは俺の希望だけど」
「続けて」
と、促され健は唇を舌で湿した。
「色を取り戻した君の瞳に映るものを、僕は見たい」
長い沈黙に健が祈りを込めていると、舞はようやく口を開いた。
「……わかりました。手術を受けます」
「よかった。じゃあ、すぐに迎えを呼んで病院へ行かなくちゃ」
と、健が舞の手を引こうとすると、彼女は急に、
「そのかわり!」
と、大声を出した。
途端に、作品と作品の間に座る美術館のスタッフが唇に指をあてる。
「舞ちゃん」と声をかけると、舞は健のシャツの端を握りしめた。
「見えるようになったら、真っ先にきてね。最初に描くのはあなたがいい。私は、健さんを描きたい」
守衛の前を通り抜け、歩道に出ると路肩に見覚えのある外車が止まっている。
健は舞を車まで連れて行き、ドアを開け彼女の手を離した。そして美術館と歩道の境目まで下がる。
(行って。もう行ってくれ!)
と心で叫ぶのに、舞は車のドアを中途半端に開けたまま動かない。
二人は立ち尽くしていた。まるで別れ難い恋人のように。
そのときだった。二人の間を早足で通り過ぎようとした男が、やおらポケットからナイフを出し、舞に向かって振り上げた。
目が見えない舞は、襲われかけているのに気づかない。
「やめろ!」
健は男に飛びついた。健より身長が高い。それにものすごい力だ! 健は渾身の力で男の両手首を握りしめる。男の手からナイフが落ちた。歩道の敷石の上を転がったナイフの行き先を確認しようとすると、守衛が走ってくるのが目に入る。その後ろには昨日の刑事が……。
(疑われていたのか)
と、悟りつつ健は妙に清々しい気分だった。
刑事が来るまで、舞が車に乗ってしまうまで、取り押さえよう。男を拘束する手にもう一度力を込め直したとき、「健さん?」舞が不意に手を伸ばした。舞の手がさまよい男の手を掴む。
違う! それは僕じゃない!
「舞ちゃん離れて」
舞は逃げるどころか男の手を両手で握りしめた。
「この人です、私にぶつかった人。殺人事件の犯人よ!」
時が経ち……。
繁華街の一角にある画廊には客が溢れかえっていた。今日はある画家の作品の展示販売会なのだ。
「若い作家の中でも白鳥先生の人気はすごいわよね」
話していた客が、フロアの隅にかけられた一枚の絵に気づく。
「先生、抽象画なのに、一つだけ人物画があるのね」
「あれは売り物じゃないの。先生が初めて描いた絵なの。先生の旦那さまなんですって」
〈了〉
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