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勤務を終えた浅井健は店の服から自分の服に着替えると、腰に手を当てぐっと背中を伸ばした。凝り固まっていた筋肉と関節がバキバキと音を立てる。朝からずっと立ちっぱなしで腰に疲労が溜まっているのがわかる。
この店で調理見習いになって二年。健は今、二十八歳。探せばもっと楽な仕事があるんじゃないか。転職はいつも頭の隅にある。しかしそうしないのは、車に乗りたくないからだった。健には運転したくない、できない事情があって、それが職探しの大きなネックになっていた。そういう仕事は限られている。そして次を探す時間が惜しかった。辞めないなら、しんどくても続けるしかない。健には金が必要だった。
なぜなら健は二年前、交通事故を起こしてしまったから。
田舎からこの街に出て来て一週間目だった。その時健は宅配の運転手を始めたばかりだった。慣れない道をカーナビ頼りに時間指定を気にしての運転。
ナビに気を取られて衝突したのは見るからに高価そうな車だった。相手の車の尻を凹ませ、自分の車の鼻面もお釈迦にした。
それでも、ダメになったのは車だけで相手方も自分も怪我がなくてラッキーだった……はずだった。数ヶ月後、車内にいた子供が事故の後遺症で失明したと知らされるまでは。
健は慰謝料を払うことになった。金額は二千万。途方もない金額に目の前が真っ暗になった。僕はこのまま慰謝料のために一生を生きるのか。
店はシフト制で。早朝からランチ過ぎの早番とランチ後から閉店までの遅番勤務の二種類で、健は今日早番だった。
「お先に失礼します」
と、店の裏口から出る。五月のウララかな午後のはずなのに、居並ぶ店の裏側に面したこの細い道は、陽が照っていてもどこか薄暗い感じがする。
すっかり癖になっているため息を一つはいて歩き出そうとしたときだった。
「きゃっ」
と、聞こえた悲鳴に思わず声がした方へ顔を向けると、十五、六に見える少女が尻餅をついていた。
少女は、尻餅をつくのが勿体無いくらい上等なワンピースを着ている。肩まである黒髪は艶があり、色白でちょっぴり垂れ目なのが玉に瑕だが品のある顔立ちの子だ。
(どうしてこんなところにこんな子が)と、不思議になりつつ健は彼女に、
「君、大丈夫?」
と、声をかけた。するとパッとこちらを見た彼女が、
「あのっ、■■美術館へ行きたいんですけど!」
と、脚にしがみついてきた。予想外すぎる少女の行動に健は思わず「ヒッ」と尻餅をついてしまった。すごい形相で少女が健にのしかかってくる。
「ちょっ、なんだよ」
と、揉み合ううち、健は少女の手のひらが赤く濡れていることに気づいた。
「怪我してるじゃないか」
「血? 私、怪我なんか」
細い手首を掴んで手のひらを少女に向ける。
だが少女はキョトンとしたまま。
「手当てするから、ついてきて」
と、健は少女の手を引いて一旦店に戻った。手当の前に血を洗い流したのだが、
「本当に怪我してない……」
流水で血の汚れが落ちた少女の手のひらには傷ひとつない。
「だから言ったのに」
「じゃあどうして血なんか」
すると少女が「あ」と手を打った。
「さっき、ぶつかってきた人に道を聞こうとしたんです。咄嗟に掴んだらその人の手だったの。そっか、私を突き飛ばしたのは怪我した手を掴まれて痛かったからだったんだ。どうしよう、大丈夫かな、あの人」
「女の子を突き飛ばすような奴最低だろ。この辺は酔っ払って喧嘩する人間がザラだから、大方そういう奴だ」
目の前の俺より、そんな奴を気にするのかい? と少し向っ腹を立てていると、
「そんなことより」
と、彼女が健の手を握った。自分とは違う柔らかな皮膚の感触に健はドキッとする。
(警戒心がないのかな。よく知りもしない僕なんかの手を簡単に握って)
健が戸惑っていると、
「■■美術館へ行きたいの。どう行けば良いか教えて!」
と、少女が顔を近づけてくる。かぁっと顔が熱くなって、健は彼女の手を振り解いた。
「じゃあ、地図書くから」
心臓が痛いくらいドキドキと波打っている。モテる方じゃないんだ、俺は!
「だめ。地図はいらない。どうせ読めない。私、目が見えないから」
サラッと言う少女に、健の目が大きく見開かれる。
「……マジか」
少女の距離感がやけに近かったりすぐ手を握ったりしてくるのは、別に俺に好意があるわけじゃなかったのだ。いや、別に? 意識なんかしてなかったけど……。
と、健が頭の中で言い訳していると、少女が「あ」と声を上げた。
「ど、どうした?」
「杖を落としちゃった」
「大事なものだろ? どこで落とした? 一緒に取りに行こう。いや、俺が一人で探しに行くほうがいいのか?」
「落ち着いて。多分もう拾われてる。それより美術館へ行きたいの」
健は呆れて彼女を見た。
「拾われたってどうしてわかる? 杖は君の目の代わりだろ。大事じゃないか」
そのときロッカールームの外に足音が聞こえた。少女がビクッと肩をすくめる。鼻先に顔を近づけられ、健は息をつめた。だから、こういう距離感ないのは良くないって……と注意したいのに、言葉が喉に絡んで外に出せない。少女が内緒話を打ち明けるように囁く。
「私、追われてるの」
健は呼吸を忘れ、少女を見返した。
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