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1.初恋
視界のなかの文字たちが消え、汚れた黒板と同級生たちの背中に変わった。雨宮史苑は「あ」と短い声を漏らして顔を上げた。机の上に置いていた眼鏡が落下し、転がっていった。
「なんだよ、これ。エッチな本か?」
いつの間にか、クラスのなかでも目立つ存在の男子数人に取り囲まれていた。読んでいた文庫本を取り上げられる。男子たちは許可も得ずに広げ、にやにや笑っている。
「やっぱエロ本じゃん。見ろよ、ほら」
書店のロゴが印刷された薄い紙のカバーを乱暴に剥がし、クラス全員に見えるように表紙を掲げる。文庫本の表紙には学生服を着た男ふたりのイラスト。顔を寄せ合って、ハートのかたちを散りばめた装飾も施されている。
「これホモ小説だぜ」
「マジかよ。キモっ」
笑い声は廊下まで届き、面白がって隣のクラスの連中まで寄ってきた。嘲笑の輪の中心で、雨宮は動くことができず、自分の席に座って俯いていた。顔が熱くなり、指先は対照的に冷えていた。たしかに、男性同士の恋愛を描いた作品ではあったが、プラトニックな愛がテーマで、みんなが思っているようないかがわしい本ではない。しかし、そんなことを口にできるはずもなかった。羞恥と混乱で、発言どころか呼吸もできない。雨宮は頭上を飛び交う笑い声から逃げるかのように、額を机に擦りつけそうなほど深くうなだれていた。
「なに、雨宮。おまえ男好きなの?」
「ちが……」
「ちょっとやめなよ」
教室の反対側で見ていた女子たちが声を張り上げたが、男子の暴走を止められるものではなかった。
「うるせえな。黙ってろよ」
体格のいいリーダー格の男子が舌打ちすると、窘めようとした女子もほかの者もみな視線を逸らした。
「おなじクラスにオカマいるってびっくりだよな」
「なあ、こんなかでだれがタイプか雨宮に聞いてみようぜ」
「おまえじゃねえの」
「はあ? 嫌だわ。キモすぎんだろ」
下卑た笑い声。耳を塞ぎたかった。現実から逃避するかのように、雨宮はぎゅっと目を瞑った。
次の瞬間、椅子が倒れる音がして、笑い声が止まった。
「楽しそうじゃん」
低いのによく通る声。知らない声だった。
「あ?」
リーダー格の男子の声色が変わる。
「なに、おまえ。文句あんの?」
こめかみの横に感じていた汗の匂いと口臭が消える。代わりにだれかが近づいてくる気配を感じた。
「ガキみてえなことしてんじゃねえよ。小学生か、おまえら」
「ああ?」
「おい、やめとけ」
たちまち喧嘩腰になるリーダー格をほかの生徒が制する。教室内の空気が張り詰める。
雨宮はおそるおそる顔を上げた。明るい栗色の髪を肩まで伸ばしたイケメンが長身を傾けて雨宮の顔を覗きこんでいた。近距離で視線がぶつかる。あやうく声を上げてしまいそうになり、慌てて両手で口を覆った。
不良たちが悪態をつきながら教室を出て行くのが視界の隅に見えた。雨宮をからかうのに飽きたのか、それともこの男に雨宮の知らないなにかがあるのか。とにかくたすかった。雨宮は全身で息をついた。
「はい、これ」
取りもどした文庫本にもとどおりカバーをかけて、差し出してくる。夢でも見ているような気持ちで、雨宮は本を受け取った。ほんの一瞬、指先が触れ、鼓動が大きく跳ねた。心臓の音を聞かれてしまうのではないかと、雨宮は文庫本を胸に圧しつけた。
「行くぞ、風間」
「おー」
友人に呼ばれて、風間は大きな手を閃かせた。その手で雨宮の頭を軽く撫でると、ぱっと背中を向けた。
「じゃあな。あー……」
「雨宮です。雨宮史苑……」
「シオンね」
首を捻って雨宮を見ると、風間は眩しい笑顔で再び手を振った。
「またな、シオン」
きたときとおなじように、その場の空気を独占したまま去っていく風間の背中を、雨宮は呆然と見送った。
風間くん……
胸に抱えた文庫本がまるで花束のように思えた。
「漆原」
名前を呼ばれただけなのに、まるでショットガンの弾丸を背中に食らったかのように、漆原は大きく体を震わせた。
「か、風祭……くん……」
「あのさあ、こないだの……」
手にしたバッグの中身を探ろうと一瞬目を伏せ、再び前を向いたときには、漆原の姿はすでに遠くなっていた。
「おい……待てよ、漆原!」
全速力で走っていく漆原を追いかける。漆原は信じられないほど足が遅かった。不意を衝かれたのにもかかわらず、あっという間に追いついた。
「待てってば!」
制服の腕をつかむと、観念したのかようやく足を止めた。体を折り曲げ、膝に手を張って、喘ぐように酸素を吸う。ふだん運動していないのか、かなり呼吸がくるしそうだ。おれのほうは部活で毎日ランニングをしている。これくらいの距離で息を乱すことはない。
「なんで逃げんだよ」
「だって……」
漆原は烈しく咳き込みながら答えた。
「恥ずかしい……」
「なんだよ、恥ずかしいって」
思わず笑うと、つよい視線に睨まれた。
「自分が書いた小説を読まれたら恥ずかしいに決まってる」
「何万人って読まれてんのに今さら」
「知らないひとに読まれるのと同級生に読まれるのは全然ちがうよ」
おれの手を振りほどき、その場にへたりこむ。抱えた膝の間に頭を挟み、深いため息を吐く。ようやくすこし落ち着いたようで、汗で額に纏わりつく前髪を手で雑に撫で払った。
「もうやだ。死にたい……」
「そんな大袈裟なことじゃないだろ」
呆れ半分に首を窄める。周囲にひとがいないことを確認する。放課後の学校内は部活をはじめる生徒や職員室に移動する教員の姿も多かった。すぐ裏の体育館からはバスケット部がボールをバウンドさせる音と部員たちの声が聞こえてきた。
「おもしろかったよ、おまえの小説」
声を顰めていった。
「それいおうと思ってさ。べつに批判しにきたわけじゃない」
「嘘だ」
「嘘じゃねえよ」
「嘘。絶対嘘」
「なんでそう思うんだよ」
「おもしろいわけないもん。気持ち悪いに決まってるもん」
こっちがせっかく気を遣ってこそこそしているのに、漆原は叫び出しそうなほどだった。
「べつに気持ち悪いとかはねえよ」
「嘘だ。勝手にキャラクターのモデルにされて気持ち悪くないわけない」
消え入りそうなほど全身を縮めて、漆原が声を震わせる。
「いや……それはたしかにびっくりしたけどさ、でもほんとにおもしろかったよ。最後のとことかけっこう感動した」
「……最後ってどこ」
「ほら、最後んとこでさ、暴走族に拉致られた風間を雨宮が助けに行くとこ。感動の再会ってやつだよな」
昨日の夜に読んだ小説のラストシーンを思い出しながら説明する。漆原がこわごわというように顔を上げた。
「ほんとに読んだんだ……」
「だから読んだっていってんじゃん」
あまりのしつこさに苦笑いする。
「名前からして、風間ってのがおれかなって思ったんだけど、あってる?」
「あってる……」
漆原の声は細く、弱々しかった。羞恥心でひとを殺せるなら、おれは犯罪者になってしまうだろう。
「ほんとに気持ち悪くないの……」
「気持ち悪くないって。なんでそんな気にすんだよ」
「だって、めちゃくちゃ乙女展開だし……ていうかBLだし」
「まあ、そこは若干まだ戸惑ってるけど……」
ぎこちない沈黙。すこし離れたグラウンドで集合の号令が響いている。野球部監督の声だ。
「やべ。行かないと」
まだ制服のままで着替えてもいないおれは焦って体の向きを変えた。首だけ残して、漆原に声をかける。
「部活終わったあと、ほかのも読むから」
「もういいってば!」
漆原が顔を真っ赤にしているのを見て、おれは笑った。掌を閃かせ、いった。
「またな、シオン」
「……馬鹿!」
背後で漆原がどんな顔をしているのか想像しながら、おれは笑いを噛みころしてグラウンドを目指し走っていった。
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