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10.元カノ
イメージとはおそろしいものだ。小説を読んでの印象から、おれは勝手に、漆原が純愛映画やファンタジー映画を選択するものと思い込んでいた。
「だいじょうぶ?」
漆原が目の前の自動販売機で買ってきてくれたミネラルウォーターを口に含んだが、すぐに吐き出してしまった。映画館の前でおれは無様に座り込んでいた。ブランドもののシャツが吐瀉物で汚れている。
「ホラー苦手なんだったらいってくれたらよかったのに」
漆原のいうとおり、伝えるべきだった。しかし、どうしても観たかった作品のディレクターズカット版だと声を弾ませる漆原を見ていると、いえなかった。
おれは漆原のことをなにも知らない。熱狂的なホラーファンだという情報も、当然ながら、つかんでいなかった。
いや、漆原に譲ったのではない。漆原の物語の主人公であるべき自分に苦手なものがあると知られたくなかったのだ。
耐えられると思っていた。しかし、夢見がちな乙女体質だと思い込んでいた漆原のリクエストは、腸が飛び出る血みどろのスプラッターで、直視に堪えない凄惨な殺戮シーンのオンパレードなうえ、ラストシーンにはおれがこの世でもっとも恐れる殺人ピエロまで登場する始末だった。
5歳の頃に家族で出かけたサーカスで巨体のピエロに脅かされて以来のピエロフォビアだ。タイトルにもポスターにも登場しなかった特別ゲストの殺戮者は、おれのトラウマを狙い撃ちした。覚悟が整っていなかったおれは、エンドクレジットの途中で、食べていたポップコーンとコーラを盛大に吐き出した。
「全然知らなくて、ほんとにごめんね」
SNSで発信していたのは得意なことだけで、苦手なことは一言も発していなかった。漆原が知らないのも無理はない。くだらない自意識の結果がこれだ。
「もう帰ろう」
おれの背中を摩りながら、漆原は泣きそうな顔になっていた。楽しい日にするはずだったのに。こんな顔をさせるはずではなかった。
「いや、だいじょうぶ」
漆原の手を借りながら立ち上がる。
「だいじょうぶそうに見えないよ」
半身を密着させておれの腕を支え、漆原は心配そうに眉を顰める。
「帰ったほうがいいって。ゆっくり休んで……」
「だいじょうぶだって!」
漆原の言葉を遮り、声を荒らげた。漆原の表情に不安と驚愕が浮かぶ。慌てて笑顔をつくった。うまくできているとはとても思えなかった。かろうじて、いった。
「メシ食って帰ろう」
取り繕ったつもりだったが、成功はしていなかった。昼食は取っていなかったが、食事ができる体調とは思えない。漆原の表情は曇ったままだ。
「腹減ったし。行こう」
ふらつく足取りで映画館のロビーを出る。漆原は躊躇いながらもついてきた。
「なんか食いたいのある?」
必死で平静を装っているつもりだったが、通りがかかったカップルがおれの顔を見て表情を歪めるのをみたところ、自分で思っているほどうまくいっていない。
「近くのカフェとかレストラン、ネットで探してみるか?」
「うん……」
ミネラルウォーターのボトルを腹の前で握りしめ、漆原は気まずそうに俯いている。
「あの、実はね……」
「なに?」
漆原がおずおずと顔を上げた。上目遣いでおれを見る漆原の後ろにスプラッター映画のポスター。斧を振り上げる血まみれの殺人鬼と目があった。おれは何度目かの嘔吐で高級なシャツをもはや着ていられないほどに汚した。
漆原は弁当を持参していた。おれのぶんも用意されていた。公園のベンチに並んで座って、弁当を広げた。使い捨ての容器に小さめに握られた塩むすびとウインナー、卵焼きに、もやしと豚肉の炒めものなどを詰めた質素な弁当だったが、どれもていねいに手間を惜しまずつくられているのがわかる。
準備に手間を取られたため、朝食も取っていなかった。空腹ではあったが、繰り返し嘔吐した影響で胃に違和感が残っており、食欲を感じなかった。
「無理して食べなくていいから」
「いや、旨いよ」
塩むすびを口に入れ、咀嚼するものの、いつまた嘔吐衝動に襲われるかと思うと、落ち着かない。漆原がつくってくれた食事を地面にぶち撒けることは避けたかった。
ぎこちない沈黙。情けなさで消えてしまいたくなっていた。これほど最悪なことがあるだろうか。漆原はなにもいわないが、おれに幻滅しているにちがいなかった。
「漆原」
漆原の顔を直視できなかったが、沈黙に耐え兼ね、首を傾けた。
漆原もおれとおなじように俯いていた。割箸を持つ手を空中で止め、じっと地面を見つめている。
「漆原」
もう一度呼ぶと、我に返ったように顔を上げた。
「ごめん。なにかいった?」
「いや……」
罪悪感を帯びた眼差しに、言葉を切った。卵焼きを口に入れ、いった。
「これ、めちゃくちゃ旨い」
素直な賞賛に、漆原はほっとしたような笑顔を見せた。
「ほんと?」
胸が詰まった。おれのせいで最悪な空気になったのにもかかわらず、やさしい笑顔を向けてくれる。この事態をおれでなく自分の責任と考えて心を痛めているのはあきらかで、いたたまれなくなった。
「甘いほうが好きかなって思ったんだけど、二択で成功したかな」
「成功してる」
高級なものでなくどこにでもあるふつうの卵だろうが、火加減が絶妙で、味付けも好みだった。やわらかすぎず、歯ごたえもほどよくあり、出汁の風味も効いている。もし付き合っている彼女がこの卵焼きをつくってくれたら感激するだろうと思った。アパートに泊まったとき食べた朝食のおにぎりと味噌汁も美味だったし、もし漆原が女だったら良妻になるだろうと思った。
いや、「女だったらいい奥さんに」などは褒め言葉としては最悪だろう。漆原は女ではないし、女になりたいとも、おそらく考えてはいないはずだ。
おれは漆原に甘えている。遅すぎたものの、実感していた。おれに興味を持ち、おれの趣味嗜好や思考回路を知っている漆原なら、おれの傲慢をゆるし、怠慢を窘めてくれるのではないかと、心のどこかで頼っているのだ。
漆原といるときだけ、おれは自尊心を取りもどせた。自分自身の存在価値を無条件に信じられた。そんなことははじめてだった。
「なあ、漆原、あのさ……」
いいかけたとき、視界の隅に知った顔を見つけ、言葉を切った。
おれの視線を追って、漆原が体の向きを変える。漆原の頭ごしに、背の高い女がおれの姿に気づいて眉を上げた。
目が合ってしまった。できれば無視したかったが、そういうわけにもいかない。軽く頭を下げる。それで済ませてほしいところだったが、相手はおれに向かって手を振り、近づいてきた。
「顕ちゃんじゃん。久しぶり。なにしてんの?」
「どうも……」
琴子がベンチに座っているおれを見下ろす。ひとつ年上の彼女が卒業して以来、一度も会っていなかった。まさかゲロまみれの状態で再会するとは。
「琴子、だれ?」
いっしょにいるのは彼氏だろう。琴子同様にスタイルがよく、最新のファッションに身を包んでいる。顔も整っていて、鼻と両耳にピアスをしている。渋谷の雑踏のなかでも目立つカップルだ。
「地元の高校の後輩」
臍の覗ける短いカットソーの裾を閃かせて、琴子が彼氏のほうを向く。琴子の動きに合わせて、つよめの香水の匂いが漂った。
「元気? 顕ちゃん」
「まあ……」
愛想のないおれを気にかけることなく、琴子は無邪気にいった。
「ごはんしてるの? それ手作り? かわいいね」
なにがかわいいのかわからない。なんでもかんでも「かわいい」と形容しておけば済むと思っているのではないか。迷惑がっているのをあからさまな態度にしているのにもかかわらず立ち去ろうとしない琴子に不快感を抱きはじめていた。
「ふたり? 映画観てきたの?」
ベンチに置いていたチラシを見て、琴子が身を屈める。小さな子どもに話しかけるような口調も鼻についた。圧倒的優位に立つ者が見せる余裕。吐き気がこみ上げる。
「もしかして、デートかな?」
「ちがいます」
答えたのはおれではなく漆原だった。食べかけの弁当を手早く包みなおし、立ち上がる。
「男同士でデートなんかするわけないでしょ」
冷たい声でいって、漆原は立ち上がった。琴子にも彼氏にも視線を向けることなく、カップルの間に割り込むようにしてその場を離れる。
「あ、漆原……」
自分の弁当を手に持ったまま、大股に去っていく漆原を慌てて追う。背後で琴子がなにかいった気がしたが、よく聞こえなかった。どうでもいいと思った。
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