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2.オフィスラブ
「ちょっと待ってください、風間部長」
エレベータに乗り込む上司を追いかけ、花森は社内の廊下を走った。扉が閉まる寸前に体を割り入れると、風間は驚いたように身を引いた。
「なんだ、どうした、花森」
「すみません、あの……」
全速力で走ったために息が切れ、言葉が不自然に途切れた。
「だいじょうぶか」
「はい……」
風間の大きな掌にやさしく背中を撫でられ、花森は顔を赤らめた。
「あの、部長……」
「ん?」
「次長から聞いたんですけど。沖縄出張のこと」
「ああ、あれか」
1階のボタンを圧しながら、風間はにやりと笑った。
「不満か? 行きたくない?」
文字盤に体を向けたまま、風間が悪戯っぽく微笑む。
「まさか。お供できるなんてすごく光栄です。でも新人のぼくなんかが……変な誤解が生まれないか心配で」
「心配いらない。仕事なんだからだれも疑わないよ」
ストレートな言葉に、花森は顔を真っ赤にして俯いた。
「噂になっても、おれは構わないけど」
伸びてきた手を避けて身を縮こまらせる。
「ちょっと……会社じゃだめって約束したじゃないですか」
「わかったよ。就業時間まで我慢する」
拗ねた表情をつくって、風間は手を引っ込めた。エレベータの壁に半身を預け、部下で恋人の男を熱い眼差しで見つめた。
「じゃ、仕事終わったら家に行くから」
「はい」
「沖縄で水族館デートしような」
「はい……」
これ以上赤くなれないというほどに頬を染め上げ、花森は腰の前で両手を擦り合わせた。そわそわと落ち着きのない花森をいとおしげに眺め、風間は壁を離れた。エレベータが1階に到着するところだった。
「じゃあ、おれは依頼主との打ち合わせがあるから」
「わかりました」
受付の前で別れる。反対方向に進みかけたところで、風間が花森を呼び止めた。
「花森」
「はい?」
振り返った花森に、風間はいつもの悪戯っぽい笑顔でいった。
「今日はNO残業デーだからな」
花森は再び真っ赤になって、社員たちが行き交うエントランスに呆然と佇んだ。
「リーマンものもあんのかよ……」
呟いた拍子に、指の間からスマホが滑り落ちた。自室のベッドで仰向けになってスマホを掲げる姿勢になっていたため、落下したスマホが顔面に直撃して、思わず声が出た。
「うるさいよ、顕! 早く寝なさい!」
「わかってるよ!」
ドアの外で怒鳴る母に一言だけ返事をして、のそのそと起き上がる。
「くそ、いてえ……」
スマホの角が激突した鼻を軽く指先で押さえ、顔をしかめる。自分の部屋にひとりでいるのではだれに当たることもできない。情けない姿で、ベッドの上にあぐらをかく。
イケメンが台無しだなどと考え、鼻の付け根を撫でながら自嘲の笑みを浮かべる。
自分のことはわかっている。美少年でもなければ長身でも筋肉質でもない、どこにでもいるふつうの男子高校生だ。学校の成績は中の下程度だし、所属する野球部では一度もレギュラーに選ばれたことがなく3年間ベンチをあたためつづけている。正義の味方の風間くんのように勇敢でもないし、風間部長のようなエリートでもない。小説のなかで描かれる主人公とは似ても似つかない平凡な男だ。
卑下しているわけではない。客観的に見て、特別なところは見つけられなかった。恋愛小説の登場人物のモデルとして関心を向けられる理由がまったくわからない。
鼻を啜りながら部屋を出る。階段を下りると、リビングのソファに寝転がって本を読んでいた姉の日沙乃が首を捻った。
「おーす、顕」
「姉ちゃん、帰ってたのか」
都内のテレビ局で記者として働いている姉の時間は不規則で、埼玉のはずれにある実家にはほとんど寄りつかない。忙しい時期には何日も局に缶詰になることもあるし、海外出張も頻繁にある。この時間に自宅で顔をあわせるのは珍しい。
「この漫画、あんたの?」
冷蔵庫からコーラの缶を取ろうと伸ばした手を止めた。慌てて振り向くと、日沙乃が漫画の表紙をおれに向けていた。ふたりの美少年が並んで立っているイラストに丸みのある書体でタイトルが記されている。
「なに勝手に読んでんだよ!」
足を縺れさせながら掛け寄り、日沙乃の手から漫画を奪い返す。
「置きっ放しにしてるほうが悪いんじゃん」
年齢の離れた姉は、ソファに寝そべったまま、焦る弟を見上げて笑った。
「あんたもそういうの読むんだ。ちょっと意外」
「読まねえよ。これはちょっと……諸事情で」
「諸事情?」
つかい慣れていない言葉だとすぐにばれただろう。おれはいたたまれなさに表情を歪めた。
「彼女に借りたとか?」
「いねえよ、彼女とか」
「そうなの? この前までいたじゃん。だれだっけ、あの大人っぽい子」
「もう別れた」
「マジか。ごめん、知らなかった」
ため息を飲み込む。昔からこうだ。無邪気に、無遠慮に、確実におれの地雷を片っ端から踏んで歩く。
「どこ行くの」
漫画を手にリビングを出るおれに、姉は首を伸ばして話しかけてくる。
「もう寝る」
「明日から取材で1週間ニューヨークだから、向こうで一澄に会ってくる。朝早く出るから、お父さんにいっといて」
「わかった」
自室にもどり、ドアを閉めて深く息を吐く。手のなかの漫画を見つめる。鮮やかなピンク色の帯が巻かれた表紙でイケメンが微笑んでいる。頭脳明晰、スポーツ万能、眉目秀麗、まさに非の打ち所のない完璧な男が眩しい笑顔でおれを見返してきた。
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