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4.俳優
リビングのテレビをつけたまま、鍋の蓋を開けて中身を確認する。たっぷりの野菜と魚介類が入ったミネストローネが煮え、完熟トマトの香りを漂わせていた。
味を見てから、再び蓋をする。ローストビーフも焼き上がるところだ。朝のうちに行列に並んでようやく購入したバゲットもカットしてトースターに入れた。準備は万端だ。
キッチンから首を伸ばしてリビングを見る。リビングではクリスマスツリーが光っている。よく知る声がテレビ画面から聞こえてきた。壁の時計を確認すると9時を回るところだった。ドラマがはじまる時間だ。
調理に集中して時間を忘れていた。エプロンをしたまま慌ててリビングのソファに座る。
背筋を伸ばして画面を見つめていると、玄関で物音がした。聞かされていたよりも早い帰宅だった。腰を落ち着ける暇もなく再び立ち上がって玄関に向かう。
「おかえり、謙太郎くん」
「ただいま」
サングラスをはずした謙太郎がブーツを脱いでいるところだった。いつもどおりバッグを受け取り、胸の前に抱えたバッグごと抱きしめられ、キスされた。
「すげえいい匂い」
「謙太郎くんの好きなミネストローネつくったよ」
脱いだコートも預かり、手早くハンガーにかける。コットン生地が煙草の匂いを漂わせる。匡希は煙草を吸わないし、街中で匂いがすれば顔をしかめるが、謙太郎の匂いはべつだ。顔を圧しつけて思い切り嗅ぎたいという衝動をどうにか打ち消し、リビングにもどる。
謙太郎はソファに座り寛いでいた。リモコンを片手にチャンネルを変える。
「あ、見てたのに」
「おれもう見たし」
「そりゃそうだろうけど、ぼくは見てないもん」
隣に座ってリモコンを奪い返し、チャンネルをもとにもどす。謙太郎は長い腕をソファの背に引っかけ、苦笑いしている。
画面のなかでは謙太郎が音楽ホールのステージでピアノを演奏していた。漆黒の燕尾服がおそろしいほど体に合っている。
「すごい。謙太郎くんピアノ弾けたんだ」
長い指が鍵盤上を滑る映像が大きく映し出され、感嘆のため息をつく。隣で謙太郎が噴き出した。
「弾けるわけないだろ」
「え、でも……」
「手の映像だけプロのピアニストが弾いてるんだよ」
「そうなの。びっくりした」
すこし考えてみればわかりそうなものだが、浅はかな発言を恥ずかしく思った。謙太郎がにやにや笑って見つめてくる。
「なにも知らないんだな、匡希は」
「またそうやって馬鹿にする……」
「馬鹿にしてないよ。かわいいっていってんの」
ソファの上で体をずらし、エプロンをしたままの体を引き寄せる。
「すごく癒やされる」
耳元で囁かれると、頬が熱くなる。
若手実力派俳優としてここ数年急激に知名度が上昇している謙太郎は、文字どおり分刻みのスケジュールをこなしていた。主演ドラマは折り返しに入っているところだが、謙太郎が演じる天才ピアニストが挫折を繰り返しながら成長するストーリーと主演の謙太郎の演技力がネットで話題になり、キー局トップクラスの視聴率をキープしていた。最終話に向けて一気に展開がすすみ、匡希も毎週楽しみに見ていた。
「どうせ録画してんだろ。あとで見ればいいじゃん」
「リアルタイムでも見たいの。このあと匠がどうなるのか気になって」
「おれが教えてやるから」
「だめ。絶対やめて」
謙太郎が笑って匡希の臀部に手を回す。ふたつの体が密着する。煙草の匂いに混じって甘い香りがした。
「ケーキ食べたの?」
「え? ああ。撮影現場で誕生日祝ってもらって」
匡希の背骨を指先で追いながら、謙太郎が曖昧に頷く。
「情報番組のカメラも入ってたし断れなくて」
「怒ってるわけじゃないよ」
笑って体を離す。今やだれもが認める人気俳優となった謙太郎が誕生日に恋人と過ごす時間を確保できたことに感謝こそすれ、つまらない我儘で煩わせる気はなかった。
「ごはんも済んだ?」
「誕生日会ですこし食べたけど、胃は空けてある。匡希の手料理食べたいから」
「よかった。じゃちょっと待ってて」
立ち上がろうとする腕をつかまれ、再び謙太郎の膝に雪崩れ込んだ。
「もう……ごはん食べるんじゃないの」
「あとでいい」
「だめ」
謙太郎の腕をすり抜けて脱出する。整った鼻の付け根にキスする。
「ごはんのあと」
謙太郎は名残惜しさを主張するように匡希の膝を撫でていたが、根負けしたというように唇を窄めて食事の支度にもどる匡希を見送った。ソファの上でスマホが振動しているが、手も触れようとしない。
「電話、いいの?」
「いい。誕生日くらいふたりでいたい」
謙太郎がチャンネルを変えたらしく、クリスマスソングが流れてきた。ドラマはあとで録画を見るしかないようだ。
オーブンからローストビーフを出して、キッチンに置いたままのスマホを目で確認する。謙太郎のSNSは事務所が更新しており、本人はたまにチェックする程度だったが、それでも熱狂的なファンが誕生日を祝うコメントで賑わっていた。数十万というフォロワーが謙太郎が生まれた日を祝福しているのに、謙太郎は今ここにいる。有名人でもなんでもないごく平凡な男とともに。
12月25日生まれだと、誕生日よりもクリスマスのほうが優先されてしまうと、以前まではぼやいていたが、人気俳優となった今では、むしろおぼえてもらえやすくていいと笑っている。
「うまそう」
キッチンに入ってきた謙太郎が肉を切る恋人の背後に立つ。腰に巻きつく腕から逃げるように身を捩った。
「危ないよ。包丁……」
抗議の声は唇のなかに吸い込まれた。
「愛してる、匡希」
低い囁きに笑顔を返した。この部屋でだけはなにも演じることなく素のままの自分を見せてくれる恋人を見つめていった。
「誕生日おめでとう」
「これ返す」
図書室の隅で本を読んでいた漆原の目の前に漫画を置く。読書に集中していておれが近づいていることに気づかなかったらしい漆原は驚いて顔を上げた。
「風祭」
おれの顔を見るたびに顔を赤くするのは、後ろめたさのせいか羞恥心のせいか。いい加減慣れてもいい頃だが、反応は毎回ぎこちなかった。
「昨日姉ちゃんに見つかって焦ったわ」
了解も得ず向かいの席に座る。責めたつもりではなかったが、漆原は表情を曇らせた。
「ごめん……」
「いや、漆原のせいじゃないから。謝んなよ」
「ごめん」
苦笑いする。本気で恐縮しているようだが、まるでコントだ。
「もう読み終わったの?」
「漫画はな。小説はまだ半分くらい残ってる」
漫画のタイトルと原作者名で検索すると、「URU」が手掛ける小説サイトが見つかった。SNSにも投稿しており、フォロワーの数は3万人を超えていた。
おれにサイトを知られたと気づいた漆原は即座にサイトとSNSを非公開設定に切り替えたが、数日もせずに閲覧できるようになっていた。ドラマの制作発表を前にサイトを閉じるなど常識的にあり得ない。おそらくは編集者かテレビ局の人間になにかいわれたのだろう。おとなの事情というやつだ。
表向きにはリニューアルのための一時的な措置ということにされていたが、実際の原因がおれであることはおそらくおれと漆原しか知らないはずだ。
ロマンチックな台詞と紳士的な振る舞いで読者を虜にしているエリート会社員やイケメン俳優「風間謙太郎」のモデルが通っている高校の同級生だという事実を、漆原はだれにも話していないようだ。相談していれば、放課後の図書室でいきなり本人に打ち明けることにはならないだろう。
漫画化もされ、海外にもファンを持つ人気作家の秘密を知る唯一の人間であり、弱みを握っているという事実に、すくなからず優越感を刺激された。
「べつに全部読む必要ないじゃん」
漆原のため息は深い。自分が書いた小説を顔見知りに読まれるというのは、複雑な心境だろう。それも、登場人物のモデルにした男にしげしげと見られ、学校で毎日顔を合わせなければならない状況は、かなりのストレスにちがいない。憂鬱そうな顔を見ていると、なんとなく加虐的な気持ちになった。
「嫌なら嫌ってはっきりいってくれたらいいのに」
「だから嫌なんていってないじゃん」
書籍化されるほどの文章力を持っているほどだから頭はいいはずだが、漆原にはおれの行動原理がまるで理解できていないようだった。おれにもわからないのだから、当然といえば当然だ。
「昨日はイケメン俳優の回読んだよ」
おれの言葉に漆原が絶望の呻きを漏らす。
「こんなの拷問だ……」
大仰に頭を抱えるのを見て、おれは思わず笑った。
授業が終わったばかりの図書室にはまだ生徒の姿が多い。脇を通り過ぎる学生服の一団から隠すように、漆原が返却されたばかりの自著をリュックにしまいこむ。
「部活行かなくていいの?」
用が済んだのにもかかわらず居座っているおれに怪訝な顔を向ける。追い払おうとしているようだが、頑なな態度を取られれば取られるほど纏わり付きたくなるというものだ。
「試合ももうないし、あとは後輩に引き継ぐだけで、ほとんどやることないから」
3年生最後の公式戦は1回戦敗退という寂しい結果に終わった。もともと強豪校とはいえない。3年間の最高記録は地区大会ベスト8だった。おれは一度もベンチに入ることはなく、客席で声を涸らしただけの3年間だった。
部活引退後は受験が待っている。すでに勉強に精を出している同級生も多いが、おれは比較的呑気に構えていた。担当教諭と両親からは都内の私立大学を薦められているが、あまり無理をせず、身の丈にあった地元の公立大を受けるつもりだった。いちおう受験対策として来月から学習塾に通うことになっていたが、気乗りしなかった。
テレビ局記者として海外を飛び回る姉はもちろん、ふたつ年上の兄も昨年からアメリカの大学で経済を学んでいる。入学して1年足らずですでに学内の仲間とともにIT関連の学内ベンチャーを立ち上げたそうで、たまに届くLINEを見る限りは充実しているようだ。
3兄弟のなかで末っ子のおれだけがパッとしない。おなじ家で育ちおなじような教育を受けてきたのにもかかわらず、勉強も運動も突出した才能を発揮することはなかった。ピアノや水泳を習っていたこともあったが、どれもたいした成績は残せずやめてしまった。
幼い頃からずっと、姉や兄の陰になり、目立たない存在だった。優秀な兄姉から蔑視されることもなければ親の過剰な期待で圧し潰されることもなく、あくまでも個々の特性や意思を尊重した環境で生きてこられたことは救いだったが、それでも劣等感をぬぐい去れるものではない。
将来についても、分不相応な希望は抱いていなかった。慎重に進路を選ぶ必要性は理解できるが、まるで他人ごとのように思え、いまいち真剣になれなかった。学校も学部もどこでもいい。大学ではなく専門学校や就職という道も考えたが、やりたいことがとくに見つからない。
子どもの頃は多少なりと将来の夢を持っていたことがあったはずだが、思い出せない。プロ野球選手だとかカーレーサーだとか、そういう夢見がちな時期は早いうちに過ぎて過去のものになっていた。
中流家庭に育ち、秀才でもなければ不良でもない、無個性といっていいような地味な同級生のどこに興味を抱いたのか、あらためて疑問に思った。
「用がないなら帰れば?」
おれの視線に気づいた漆原が居心地悪そうに目だけを上げる。
「帰ってもやることなくて暇だし」
漆原の目の前に重ねられていた本を勝手に取り、ページを捲る。外国の作家によるミステリー小説でかなりのページ数だ。これを全部読むには何時間かかるのだろう。
「塾は?」
「来月から」
無意識に答えて、ページを捲る手を止める。
「なんで知ってんの」
「え?」
「塾通うこと。なんで漆原が知ってんの?」
漆原が沈黙する。不機嫌そうな顔に狼狽の色がさす。
年齢や職種、性格も異なる「風間謙太郎」だったが、それぞれすこしずつおれの特徴や経験が反映されていた。誕生日が12月25日だということ、ピアノを習っていたこと、左利きであること、夏の野球部合宿で沖縄に遠征したことは、学校の記録や友人に聞けばわかることだ。しかし、通塾を決めたのはつい最近で、家族以外のだれにも話していないはずだった。
「漆原って、おれのストーカー?」
「ちがう!」
漆原が突然声を張り上げ、図書室内が静まり返った。周囲の視線を感じて、漆原は慌てて口を噤んだ。空気と一体化しようとするかのように背中を丸める。
「やめてよ。そんな……犯罪者みたいな」
「ごめん」
烈しい反応に虚を衝かれ、肩を竦めた。
「ただ、不思議でさ。なんでおれのことそんなよく知ってんのかなって……」
「もう帰る」
机の上の本を両手でかき集め、リュックのなかに詰め込んで、漆原が立ち上がる。逃げるように立ち去る漆原をおれは呆然と見送った。
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