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9.映画
高校1年の夏に開設したという漆原のウェブサイトには、10作の長編小説が公開されていた。多いのかすくないのかの基準はわからないが、バイトを掛け持ちしながら、わずかな時間をつかってこつこつと書きつづけてきたのだろう。深夜、狭いアパートの一室でパソコンに向かう漆原の姿を見てからは、小説を読む目が変わった。
すべて読んだうえでドラマ化の承諾をするという約束をしていたが、9作目までを読んだところで中断していた。ドラマの制作が進行するなかで、漆原からはせかされていたが、すべてを読み終えてしまうのが惜しく、どうしても先へ進むことができなかった。
わかっていた。おれの許可など、実際にはなんの効力もない。キャラクターのモデルがおれであることは、原作者の漆原以外だれも知らないのだ。名前や特徴が似ているからといって、肖像権を主張するほどのものでもない。裁判になってもおそらく負けるだろう。もとよりそんなつもりもない。
それでも読み進めることができなかった。読み終えてしまえば、漆原とのつながりが消えてしまう気がしたからだ。
何度となく読み返した9作目のおれは、FBIの敏腕捜査官「ケン」として恋人の相棒とともに連続殺人鬼を追いかけていた。男性同士の恋愛を主題にしてはいるが、その内容はいずれも深くまで練りこまれていて、純愛ものや青春小説、ミステリー、サスペンスとジャンルも幅広かった。代表作が漫画化されて以降は人気も急上昇し、サイトやSNSのフォロワーは増えつづけていた。ドラマ化が発表されればさらに増えるだろう。売れっ子の作家ともなれば、いつまでもおなじキャラクターばかり書いていられなくなるはずだ。おれから与えられているというインスピレーションはすぐに不要になる。おれが認めようが認めまいがドラマ化はされるし漆原は離れていく。
電車が渋谷駅に到着して、小説を読むのを中断し、スマホをデニムのポケットに突っ込んだ。改札を出て、待ち合わせた場所に向かう。
約束の時間より20分も早かったが、漆原はすでに到着していた。人混みのなか、落ち着かない様子できょろきょろと視線を巡らせている。かなり緊張しているように見えた。おれの姿を見つけると、ほっとしたように顔の筋肉を緩ませた。正体不明の感情がじわりと広がっていくのをおれは自覚していた。
「着くの早いな」
「迷わないか心配だったから」
バイトが休みだからか、いつも持っている大ぶりなコットンバッグを持っておらず、服装も軽装だ。オレンジ色のラグランスリーブにチェックのネルシャツ、モスグリーンのカーゴパンツといったシンプルな組み合わせ。頭には黒のキャップを被っている。すこし前に自宅アパートに泊まったが、クローゼットもない6畳一間だった。衣装持ちとは思えないが、清潔感のある服装だった。今日のために一張羅を選んだのかもしれないと考えると、なんともいえない満足感をおぼえた。
「渋谷はよくくる?」
人混みに紛れて交差点を渡りながら尋ねる。
「はじめてきた」
「マジで? 小説によく出てくるじゃん」
「路線図とマップを見てるんだよ。ネットで調べて……」
混雑に慣れていないのか、漆原は歩きにくそうだった。すれちがう通行人と肩がぶつかりそうになり、うまく避けられずによろける。
「あ、ごめん」
「ん」
バランスを崩した漆原の肩を左手で支える。その瞬間、やけにあざやかな既視感に襲われた。以前にもおなじようなことがあったような記憶。朧なようで、呼吸の音や腕の皮膚の感触は鮮明だった。
「ほんとにいいのかな」
漆原の言葉に、慌てて手を離す。
「なにが」
「お姉さんが会社からもらった鑑賞券でしょ」
漆原はおれの動揺に気づいていなかった。緊張と高揚のせいかもしれない。平静を装って答えた。
「姉貴は出張で海外行ってるからどうせ期限内につかえねえよ。棄てんのももったいねえし」
財布に入れていた映画観賞券を抜き出して見せる。関係者向けの招待券で、赤いインクで「ゲスト」と明記されている。
「でも友達とかと行かないの」
「いいんだよ。この前泊めてもらったお礼もしなきゃだし」
終電を逃して漆原のアパートに泊まった日の朝、漆原はおれよりも先に起きて、弟たちとおれの朝食をつくってくれた。自宅に友人を招いたのははじめてらしく、中学生と小学生の弟はおれに興味津々であれこれ尋ねられた。おれは末っ子だが、弟がいたらこんな感じだろうかと新鮮に思った。すぐに帰るつもりが、弟たちにせがまれて遊び相手をしているうち、けっきょく翌日の夕方まで居座ってしまった。
「むしろ弟たちが我儘いって申し訳なかったかなって……」
「そんなことない。楽しかった」
本心だった。漆原とふたりの弟と4人で近所の公園に出かけ、漆原が用意したおにぎりを食べた。あっという間に日が沈み、時間の感覚が薄れていた。漆原のバイトがなければ夜まで過ごしていただろう。
「おれ末っ子だからさ、下に弟がいる感じってなかなか味わえないから、ほんと楽しかったよ」
思い出し笑いをしながら繰り返す。
「次はうちからゲーム持ってくわ」
漆原がぎこちない笑みを浮かべるのを見て、我に返った。家に行ったのはあくまでも突発的なことで、次の約束などしていない。招かれてもいないのに勝手に浮かれてしまった。
「その服かっこいいね」
「え?」
唐突にいわれて、声が上擦ってしまった。漆原はおれのほうは見ずに淡々とつづけた。
「そういうの、どこで買ってるの?」
「これは……どこだっけかな。忘れた」
本当は、忘れたのではなく、知らなかった。兄の部屋のクローゼットから拝借したものだった。兄はおれとちがってセンスがよく、高校生ながらハイブランドの服も何着か持っていた。無断で持ち出したことには引け目を感じていたが、お気に入りのものはアメリカに持って行ったし、きちんと洗濯してもどしておけば問題はないだろう。
土地勘のない漆原は騒がしい街と通行人の数に気圧されているようで、おれについてくるだけで必死という様子だった。おれもそれほど頻繁にきているわけではないが、ふだんは素っ気ない態度の漆原に頼られているようで、悪い気はしない。
レコードショップの前で学生らしき一団が舗道を占拠していた。間を通り抜けようとするときにおれから離れてしまいそうになり、漆原が慌てて手を伸ばす。シャツの裾を引かれ、あやうくつんのめりそうになった。
「ごめん」
身を屈めておれを見上げる漆原の不安げな顔を見て、なんとなく庇護欲を感じた。
「つかんでろよ」
漆原は躊躇っていたが、不安のほうが勝ったのだろう。おれのデニムのベルトループに人差し指を引っかけた。
喧噪に紛れて歩いたのは15分ほどで、すぐに映画館に到着した。おれに捕まって歩く必要がなくなり、腰から漆原の重みが消える。
「なに観るか決めた?」
映画観賞券は指定された映画館で期間内に上映されているものであればどれでも無料で観られるものだった。
「ほんとにぼくが決めていいの」
映画館の前まできて、漆原はまだ遠慮している。
「風祭はなにか観たいのとか……」
「おれはいいよ。漆原が観たいので」
漆原の言葉を遮っていう。
「でも付き合ってもらうの悪いし……べつべつにちがうの観て、終わったあと合流しよっか?」
「馬鹿。なにいってんだよ。それじゃ……」
意味がない、といおうとして、言葉を飲み込んだ。
「それじゃ時間が無駄になるだろ。いいからさっさと選べよ」
動揺を誤魔化そうとして荒い口調になったが、漆原は気にしていないようだった。映画館の前に並んだ新作映画のチラシやパンフレットを興味深げに眺めている。
「映画館で映画観るのってすごく久しぶりだから迷う」
漆原の声は弾んでいる。うれしそうな顔を見ると、おれのほうも気分が高揚した。
「じゃあ……これ」
誘われたときか、すくなくとも前日までには決めていたのだろう。漆原は瞳を輝かせながら、映画館の表示板を指さした。
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