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Ⅱ
馬の背に揺られている。
馬にまたがらず連れだって歩くタバサちゃんに、乗らないのならとせがんで乗せてもらったのだ。「お前たちの歩みに合わせるつもりでのなのだが……」と微妙な顔をされたが知らんふりをした。
「蒼く蒼く澄んでいる泉があるんだけど、そこに一人のアスレイがいるんだ。普通アスレイといえば100年に一度水面上に現れるものだけど、そのアスレイは毎年現れる。彼女の氷舞を見るのが最近の僕らの楽しみなのさ」
「100年に一度の精霊が、何故毎年出てくるのだろう?」
「何でも、宝物の泉を綺麗にするためだそうだよ」
目的地は秘境だから、大人数で向かうには適さない。でも傍から見れば一人と一頭なので問題ない。道々の状況だとか地形だとかをあれこれと言い合いながらも、初めての獣道をペースを乱さず進んでいくのは頼もしいものだった。
「……ねえタバサちゃん、そもそもきみ、どんなヒトがタイプなんだい?」
僕の後ろでピクシーが声を上げる。「ええ?」と少し大きな声を上げた彼女は、(彼の言葉を聞いた瞬間に想像した通り)うーんと首をひねっている。
「考えたことがないな。お見合いなんだから、タイプだ何だと言っている暇はないよ」
「そんなだからダメなんだよ。想像してみて、結婚して一緒に暮らすんだよ? きみの隣にはどんなヒトがいる?」
彼が強気に促すも、タバサちゃんは難しい顔で前方を睨むばかりだ。諦めたピクシーは、そこの樫の木を右だと指示した。
やがて空気が、冷たく深々とした匂いを纏ってくる。
雪が演出する空間には独特の雰囲気がある。温かく人懐っこい日の光を孕んだ気配、背筋がぴんと伸びるような凛とした気配、今すぐに来た道を戻れと言わんばかりの凶悪な氷の気配……だからこの、ソーダ水を凍らせたみたいな綺麗な空気は、彼女の醸し出す気配なのだった。
件の泉近くになると馬がしり込みを始めたが、タバサちゃんが喝を入れるとまた歩を進める。中々豪胆な馬だった。足を滑らせながらも淵に降り立った両者が、ほう、と感嘆の息を吐く。
たくさんの氷の華が、上等なアクアマリンのような水面に咲いている。深い蒼色の水底から、水晶よりも透明な氷の華が、見ているうちにも次々に水面に浮かび上がってくる。
”不正白華”、これが彼女の魔法だ。ジャンル:天象の中等魔法であるこの氷の華は、肉体ごと魂を凍らせる死の華なのだ。
岸辺に件のアスレイが座り込んでいた。
「ハロー、アスレイ」
僕らが呼びかけると、彼女は湖の深みのような緑色の髪を揺らして僕らを仰ぎ見た。いつ見ても美しいその顔の、中央で光る目は、例年通り憂いの色を湛えている。
[ハロー、今年も来たのね、おちびさんたち……その方はヒトね。自殺者にしては顔色が良すぎるのではなくて?]
「このヒトは違うよ。雪原で黄昏ていたから誘ったんだ」
[何故誘ったの? これ以上死の泉として名が知れるのは嫌なのに]
「……すまん。会話をしているのなら、彼女は何と言っているのだろう」
タバサちゃんが困ったように眉をひそめている。
どうやらアスレイの言葉が分からないらしい。そうと分かればふと悪戯心が沸いた。
「きみのことが一目で気に入ったって。氷漬けにして飾っておきたいってさ」
タバサちゃんが僕をじっと見つめてくる。そのシトラス色の綺麗な瞳は、僕の顔の皮膚を通りこして脳みそまで見透かしているのではないかという錯覚に囚われそうだ。
「嘘はいただけないな」
やがてタバサちゃんはそう言った。
「この地、グレート・ブリテンの妖魔ならある程度嗜んでいる。水精アスレイに残忍性はないはずだ。それに、わたしはノエルのように言葉の真偽は直感的に分からないものの、わたしは感情を読み取る”静寂が饒舌”持ちだ。通訳するなら真のことだけ伝えてくれないか?」
”静寂が饒舌”――ジャンル:心身の中等魔法だ。
後ろでアスレイがきょとりとしているのが分かるし、横ではピクシーが止めておけと言うように首を振る。……まあほんの出来心だし、喧嘩する気もないけれど、でも何だろう、負けた気分だ。面白くはないけれど一旦引いておこう。僕は肩をすくめて口を開く。
「きみは自殺者じゃないって弁明していたんだよ」
そう伝えると案の定タバサちゃんは目を丸くした。
「自殺者? わたしが、何故」
「ここは、付近の人間間ではそういう穴場なのさ」
こう続けたのはピクシーだ。
「一番人気なのは夏。この泉は付近のそれらより水が冷たくて、死に駆られた人間は、よくここを最後の場所に選ぶんだ。アスレイは寒くなけりゃあ出てこられない。そうして溜まった1年分の死体を氷の魔法で片づけてるのが彼女なんだよ」
ね、アスレイ? と彼が振り返るとアスレイは困った風に笑った。
「それが”不正白華”か……凄い量だ」
タバサちゃんが一人ごちる。
[ああ、人間にわたしの言葉が通じないなんて初めて知ったわ……そりゃあ止めても、止まってくれないわけだわ]
やっと、アスレイが再び口を開いた。
「そっぽを向いてしまったな」
「彼女、人間に自分の言葉が通じないと知って絶望しているのさ」
「そうか……ならわたしは運がいいのかな? ここには幸いにも上等な通訳がいる。
なあアスレイよ、あんたからは諦念と憂いと悲愴の色を濃く感じるよ。妖精は悪意を溜め込むと、最後ボガードに変じるのだろう? あんたの鬱屈を、気晴らしにでも、話してみてくれないか?」
意外な提案に目を丸くする。同時に、ん? と僕ら二人は顔を見合わせる。
それは家憑き妖精たちの性質であって水精の性質ではない。彼女は頭がよさそうだから、どうやら知識が混ざっているな? まあ曲解でも、そのまま誤解してくれていた方が都合がいいこともある。ので今回は訂正しないでおこう。
[話したところで何になるの? あなたが何かしてくれるわけでもないでしょう。するのはわたし。話したところで何も変わらないわ]
「話したところできみ、何もできないでしょう、だって」
アスレイの言うことは最もだ。聞くだけ聞くのは誰だってできることだろう。けど手伝うって言ったって、この”不正白華”は彼女こそが適任なんだ。僕だって、ピクシーだって、ましてや人間ごときが介入すべきじゃあない。
それに、だとしたら……アスレイはきっとあの話をする。悲しい悲しいあの話を――きみはせめて、いい言葉をあげられる? 彼女の傷を癒すことができる?
「そうだろうな。けれどそれ以上にもっとどうしようもないことがある。その一つが溜め込むことだ。吐き出すというのは結構効果があるぞ?」
タバサちゃんは引かない。シトラス色の瞳が、凛と真っ直ぐにアスレイを見ている。アスレイもその瞳を受けている。
パウダースノーをまとった風が僕らと彼女たちの間を通りぬけていった。
やがてアスレイが視線を前に戻し、座り直して水面を眺めやる。
[わたしはここいらでは、”死華舞のアスレイ”と呼ばれている……]
アスレイの物語が始まった。
――
[この泉は昔、水精の秘密の場所だった。水が蒼く澄んでいて、深く深く沈んでいて素敵なところだった……ある時ここで自殺した人間がいたの。美しいところで果てたい気持ちは分からなくはないわ。けど一人が蓋を切ると人間ってそれに続くでしょう? ……死人が多すぎた泉は暗く黒くよどんでしまった]
アスレイの雪のような綺麗な足が水面を蹴る。ぱしゃりと上がった飛沫はキラキラと、日の光を受けて宝石のようだ。
[辟易した仲間たちや他の水精は引っ越していった。けどわたしはここが好きだったから離れがたくて、結局わたしだけが残ってしまった。でもやることといったって、この毎年放り込まれる死体を片付けることくらい。それも綺麗にした矢先にまた別の人間が放り込まれるイタチごっこ。ここを捨てなかったモノの務めに感じてはいるものの、全くもって不毛だわ。
……そしてわたしも、わたし自らの手で、人間を送った……]
あの話が始まった。アスレイの透明な目は、泉の面とその奥底を通りぬけて、もっともっと深くを見つめているようだった。
[ある年の冬、”不正白華”を使っていたら、人間が一人、やってきたわ。その日は吹雪といっても良い程の風が吹いていて、その人はコートを着ていたけど軽装で、蒼い顔で、一目で自殺志願者だと気付いた。わたしを見とめた彼は驚いて立ち竦んだ。わたしは死なれたくなかったから氷雪で威嚇した。
彼は身を竦ませたものの、わたしを真っ直ぐに射抜きながら向かってきたわ。信じられない光景だった。来ないでと叫んだ。氷雪を強くしても足を止めない彼の恐ろしさを、今でもはっきりと覚えている。本当に目の前まで迫ってきて、逃げたかったのだけれど身体が動かなかった。今思えば、あれはきっと”麻酔薬”をかけられていたのだわ……
そして彼は両腕を広げて、わたしを抱き包んだ。どんなに冷えた身体でもわたしにとっては炎の塊よ……そんな血潮の熱さも、わたしの冷気に凍てついていって……引き剥がそうとしても叩いても彼は離してくれなくて……
そうして彼は死んだ。わたしの腕の中で、氷柱のようになって死んだ。わたしは彼に、人殺しにされたのよ……]
一頻り話し終えたアスレイの眦から泪が一筋流れて消えた。ピクシーがぐずりと鼻をすすった。これまでと同じ調子でタバサちゃんに向けて訳し終えた僕も息をつく。彼女は言葉なく、愕然としているようだった。
いつの間にか、それまでぷかりぷかりと浮かび上がってきていた氷の華は動きなく、ただ水面を所在なさげに揺蕩っている。
[それでもわたしはここを捨てられない。わたしがここを離れたら、ここは死に淀んでしまうから]
「浄化か」
この言葉にぽつりとタバサちゃんが呟いた。
[そんな大層なものじゃあないわ。わたしにそんな力はない。わたしは、踊るだけ……]
そう言ってアスレイは立ち上がった。足を踏み出し、水面に立つ。右手をふわりと上げ、ひらと翻し、脚を上げ、回り、”不正白華”をたどるように静かに舞い始めた。彼女の足先が”不正白華”に触れると、水晶のように弾けて、キラキラと散ってゆく。それが日光を受けて、彼女の手が上がるに合わせて空気の中を昇ってゆく。
吐き出す呼気の延長上、彼女は歌いだした。
月の惑みと 巨きな雪の盤とのなかに
あてなくひとり下り立てば
あしもとは軋り 寒冷でまっくろな空虚は
がらんと額に臨んでいる
……楽手たちは蒼ざめて死に 嬰児は水色のもやにうまれた……
尖った蒼い燐光が いちめんそこらの雪を縫って
せはしく浮いたり沈んだり
しんしんと風を集積する
……ああ、アカシアの黒い列……
みんなに義理をかいてまで 今夜旅立つこのみちも
じつは正しいものでなく
誰のためにもならないのだと いままでにしろ分かってゐて
それでどうにもならないのだ
……底光りする水晶天の 一ひら白い裂罅のあと……
雪が一層またたいて
そこらを海よりさびしくする
両掌を天に向け、指揮者のように、ぎゅ、と握り込むと、ダイヤモンド・ダストさながらに空気中に霧散していた氷の花弁が、今度こそ本当に光の粒子のように砕けて、風がそれを上へ上へと運んでいった。
[人間は嫌い。勝手に死んで、後の始末を生あるモノに押し付けていくから]
天を見上げる彼女の両目から、また一筋づつ、泪がつたって落ちた。
彼女のこの話を聞くのは2回目だけど、全く迷惑極まりない話である。
彼女は自身の特性を利用され、勝手に死んでいかれたのだ。アスレイは云わば被害者だけど、こいつも優しいから、解っていても気持ちが軽くなるわけがないのだ――自分に触れたら最後死ぬと実証されては尚更だ。まあ僕らも、そんな彼女の舞う氷舞の美しさに魅せられ毎年見物に来ているのだから、彼女の腕の中で果てたその男と何が違うと言うだろう?
「それでもここを後にしないのは、思い入れのある場を殺したくない、それだけか?」
[――それだけよ]
――沈黙。風の音。吹きあがるパウダースノー。
「己が特性を使われ死なれるなど、迷惑千万な話だが……美しいモノの中で果てんとする心理は皆同じだな」
と、黙っていたタバサちゃんの突として空気を揺るがせたその言葉にぎょっとする。そんな、今この空間で生きている人間はきみだけだと言うのに、そんなきみが死者たちに同情してはあまりにも彼女が浮かばれない! 誰ともなしに抗議の声を上げようとしたのよりも早く、タバサちゃんの唇が次の言葉を紡いだ。
「わたしも同じだよ」
え? とアスレイが怒りに見開いた目を驚愕のそれに変えて、口をぽかんと開ける。でもそれは僕たちだって同じだった。
「わたしは一つ町の王女だが、つい最近まで第6特殊戦闘部隊という、妖魔退治の戦闘部隊員だった。これはそんな、現役の頃、今よりおおよそ8年前だったかな……
務めで遠方に出た日だった。我が町は人員育成に力を入れており、一言で言うと、強い人間がたくさんいる。近隣の町から妖魔退治だとか何だとかの要請があれば赴きもするのさ。
そんな日の夜のことだった。務めは滞りなく収まり、仲間たちと慰労も兼ねて飲んで、お開きになった時だった。酒場を出た矢先に、男がダガーを構えて突進してきた――いや、そんなの数秒の出来事なのだからしっかり見据えていたわけじゃあない。ダガーも後で観察した結果だ。けれど殺気だけは間違いようもないものだったから……とにかく、男が過たずわたしに向かってきた。当時のわたしも未熟だったから、反射で、過たず、首根っこをかき切ってしまった。
血しぶきで我に返った仲間たちは、”この男はハッグに身体を捕られた不幸な者だ!”と騒ぎ立て庇ってくれたので――しかもその男はその町では、常々挙動がおかしい男と評判だったので、わたしは表向きは、ただの人殺しの名を免れた。そしてわたしは、、、恐怖心と少しの好奇心で、当時すでに習得していた”静寂が饒舌”で男を”見た”」
“見込み通りだ、一刀に仕留めてくれた。嫌なことばかりの人生で、最後に美人に看取られて逝くことができる……”
「意味が解らなかった。生粋の変態か、やはりハッグに狂わされたのかなぁ……どっちにしろ、わたしが同種を殺めたことに変わりはないんだよ。なあお前たち、わたしって、美人なのだろうか?」
僕らは考え、控えめに頷いた。
そんな言葉は、聞き取り手によっては皮肉じみた響きを持つのかもしれない。けれど今の彼女の話を聞いてからでは、彼女の苦し気な、悲愴に満ちた声の調子を聞きながらでは、意味が変わる……だから妙に、ぎくっとした。
「きみは綺麗だとは思うけれど、それできみが死刑執行人に選ばれたのは、やっぱり偶然なのだとは思う」
ピクシーが、考え考え呟いた。
「たまたまきみが強くて綺麗なヒトだっただけ。もしきみが、その酒場から出てこなくて、もしくは赴く場所が最初から違っていたとしても、その狂乱者は一日生き延びただけで、別の誰かを探していたかもしれない。だから偶然なんだよ……だからアスレイも、たまたまきみが泉にいて、自殺願望者にとって都合が良かっただけなんだ」
[見た目の美醜ってそんなに大事……?]
こう続けたのはアスレイだ。
[何が幸福な死よ、そんなものはまやかしだわ。大切なのは心持ち。送る側の想いの有様でしょうに……]
「ああ、まさにそうなのだ!」
タバサちゃんは、そんなアスレイの(僕が訳した)言葉を掴まえるように続ける。
「わたしなぞ、手も合わせなかったからな……けれどここは……生に失望して死んだ者たちは最後、水精手づから氷の華を手向けられる。中々幸せな終わりなのかもしれない」
[! ……わたしにとっては、死んでくれて迷惑なだけだわ……]
「不本意だって。自殺者自体は迷惑だって」
タバサちゃんに向かって通訳する。
「ならば何故あんたは泣いている。わたしにはどうしても、気に入りの泉を血で汚された憤りの泪だけには見えない。”不正白華”はやはり浄化、その氷舞は……彼らへの供養なのだろう?」
[見ず知らずのモノを供養する義理なんてないわ]
それに、とアスレイが視線を落とす。
[大切なのは送る側の有様。本当は、彼らは家族や友人に見送ってほしいでしょうに……魔のモノに送られるなんて夢にも思ってなかったでしょうに……]
「関係ない」
最早僕の通訳は必要ないようにタバサちゃんの声が凛と空気を震わせた。
「関係ない。人間だから、妖魔だからとか関係ない。その心根が美しい」
振り向いたアスレイとタバサちゃんが向かい合う。僕らが賞賛の言葉を贈ると、ありがとうと可憐に微笑むその顔が、今は戸惑いの色を湛えている。
おいで、とタバサちゃんがアスレイに手を差し出す。迷い、けれどおずおずとタバサちゃんの眼前までやってきたアスレイの、不安げに胸元で重ねられていた両の手を、なんと彼女は躊躇なく自身の両手で握った! いつの間に外したのか、手袋に覆われていないそのままの人間の手だ。
妖魔の身体は人間のそれと違う。デフォルトで熱かったり冷たかったり、固かったり柔らかかったり実態がなかったり、人間と似ていたり……先に話したように彼女の身体はそれはそれは冷たく、触っただけで凍傷をこしらえるというのに……
「冷たいだけ。あんたの身体は冷たいだけだ。今日のように穏やかな日だとか、あんたの心持ちかは知らんが、氷の塊だったか? 条件が少し変わるだけで積もりたての新雪のようじゃないか」
そう言って頬にまで摺り寄せたのだ。
「優しくない者がこんなに美しい華を咲かせられるものか。己を卑下するな。あんたは美しい」
――彼女は、こんなに優しい笑みを浮かべられたのか。数年前の僕らにはにわかに信じられないことだが、目の前のタバサちゃんは、たおやかで力強く、美しい笑みを浮かべていた。
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