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たとえ、震えてしまっても
「──"それは、ある夏の日のことだった。真っ青な空には大きな入道雲が浮かび、一羽のとんびが……"」
真夏の教室、現国の授業。
窓際の席から立って教科書を読む女子生徒の声が響き渡る。
しかし、その声は少し……いや、明らかに震えていた。
「──"私は靴紐を結び直し、神社へと続く急な坂を駆け上った"」
教科書を読み終わった彼女が、静かに椅子に座る。
それから、緊張から解放されたかのように、ほっと息をつくのが見えた。
俺は、そんな彼女を微笑ましく思いながら、先生が板書する黒板へと視線を移した。
◇◇◇
休み時間。
水を飲みに廊下に出ると、クラスの男子2人が楽しそうにケラケラと笑っているのに出くわした。
「さっきの河瀬さんの朗読、マジウケたんだけど」
「めっちゃ声震えてたよな」
「毎回なんなのあれ」
「オペラ歌手かっての」
河瀬さんが緊張で声が震えてしまったのを馬鹿にして、さもおかしそうに笑っている。
腹の中がムカムカして、水を飲んでも煮え立つような不快感が収まらない。
しかも、今度は二人そろって震え声の真似まで始めだした。
(……最低だな)
一言注意してやろうと顔を上げたとき、河瀬さんが悲しそうな表情で男子2人を見つめているのが目に入った。
河瀬さんは泣きそうな顔で背中を向けて、どこかへ走り去っていく。
(……今の聞いてたんだ)
目の前で馬鹿にした真似をされて、大笑いされて、ショックを受けないはずがない。
俺は馬鹿笑いを続ける男子2人を睨むようにして見下ろした。
「おい、そういうのやめろよ」
「え、佐伯……?」
「なんでそんな怒ってんの……?」
2人が気まずそうに顔を見合わせる。
「人を馬鹿にして笑うな。気分悪い」
それだけ伝えると、俺は河瀬さんの後を追って駆け出した。
◇◇◇
次もまた授業があるから、それほど離れた場所には行っていないはず。
一人になれそうな場所を考えて探しに行ってみると、屋上に出るドアに背中を預けて俯いている河瀬さんを見つけた。
人の気配に気づいた河瀬さんが顔を上げる。
「佐伯くん……?」
なぜ俺がいるのかと不思議そうな様子で首を傾げているが、泣いてはいなさそうで安心する。
俺は何でもなさそうな顔をして、河瀬さんから少し離れた場所で壁に寄りかかった。
「さっきの、あんま気にするなよ」
「え……?」
河瀬さんがきょとんとした表情で俺を見つめる。
「……朗読、上手だったよ」
ぽつりとそう言うと、河瀬さんは驚いたように目を見開き、そのまま恥ずかしそうに視線を逸らした。
「……でも私、いつも声が震えちゃって」
自信をなくしてしまったような、沈んだ小さな返事が返ってくる。
彼女がそんな声になってしまうのが、なぜだかひどく悔しいような気がして、俺はたまらず言い返してしまった。
「緊張して震えるのは仕方ないだろ。河瀬さんの声、俺は綺麗だと思う」
──そうだ、本当に綺麗な声なんだ。
震えていたって、まるで雪解け水のように澄んだ響きだと思う。
声だけじゃなく、朗読するときのすっと伸びた背筋も、教科書の文字を追う横顔も、ずり落ちた眼鏡をかけ直す仕草も、全部が綺麗で、目を奪われてしまう。
だから、さっきの心無い悪ふざけのことなんか、気に病まないでほしい。
そんな思いを込めて河瀬さんを見つめると、ふっと嬉しそうに微笑んだ彼女と目が合った。
「ありがとう。嬉しい」
少し俯いたまま、はにかんだように頬を染める彼女の姿に、今度は俺が目を逸らしてしまう。
「別に、本当のことだから。……じゃあ、俺はもう行くよ」
「うん、私ももう少ししたら教室に戻るから」
ぎこちなく片手を上げて、階段を下りていく。
(……さっき声震えてたの、バレたかな?)
いつも通りを装ったつもりだったけれど、上手くできていたか自信がない。
この調子だと、いつか彼女に告白するときは声どころか全身が震えてしまうかもしれない。
(でもきっと、河瀬さんは笑わないでくれるだろうな)
……返事はどうなるか分からないけれど。
さっき見た彼女の花のような笑顔を思い出しながら、俺はクラスメイトたちのお喋りで賑わう教室へと戻った。
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