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よく晴れた土曜日の午後。
私は上の娘と一緒にとある寺に赴いた。
それは水子供養で有名なお寺だった。
『早希子』の霊を祓ってもらう為に、私たちはこの寺にやってきた。
係の人に案内されて本堂に通される。
襖を開けると、住職と思しき年配の男性が柔和な笑みで私たちを迎えてくれた。
「ようこそ」
「この度はどうも……お世話になります」
「お嬢ちゃんはしばらくあちらへ」
住職さんが指示を出すと係の人が娘を隣の部屋に連れ出した。
どうやら住職さんは私と二人きりで話がしたいらしい。
不安そうにする私に向かって娘はにっこりと笑った。
「さーちゃんも一緒だから大丈夫だよ」
「……!」
娘の言葉を受けて私は思わず押し黙る。
そうして俯く私に向かって、住職さんが話しかけてきた。
「さーちゃん……ご相談にあった『早希子ちゃん』のことですか」
「はい」
「『早希子ちゃん』の霊に取り憑かれているので除霊してほしいとのお話でしたね」
「はい」
「どうして、取り憑かれていると思うのですか?」
「それは……あの子が私を恨んでいるから」
「……ほう。恨まれている、と貴女はそう思ってらっしゃるのですか」
「だって、『早希子』は生まれてくることが出来なかったから。
流産だったから、どこにも何の記録にも残されなくて。
あの頃は私も混乱してて碌に供養もできてなかったし。
もう何年も経つのに、私……私……」
「お母さん、貴女は何をそんなに怯えているのですか?」
「え……」
住職さんがじっと私を見据える。
まるで心の中を見透かされているような気分だった。
上部だけの言葉を並べても通用しないような気がした。
「私が怯えているのは、
あの子に……『早希子』に恨まれて今ある幸せを壊されてしまうこと」
「なぜ、そこまで恨まれていると思うのですか?」
「だからそれは……」
あの子を産んであげられなかったから。
そう。流産だったから、仕方のないことだったけど。
仕方のないことなのに、なぜ私はこんなに異常なまでに怯えているの?
「それは……」
自分で自分に問いかける。
思い出したくない気持ちが思考を止めようとする。
でも、ちゃんと思い出さないと前に進めないことも理解していた。
しばしの葛藤。
やがて……ずっと固く蓋をして封じていた記憶が、脳裏に甦る。
7年前、早希子がまだ私のお腹の中にいた時。
将来への不安、のし掛かる重圧、それらのストレスを受けて私は倒れた。
そして、流産した。
病室でそのことを聞かされた時、私は……私は……
安堵したのだ。
親への報告。
会社への報告。
将来への不安。
世間体に対する不安。
若くして母親になることへのプレッシャー。
それらの全てが一気に解消した、と思った。
全部無かったことに出来る、と思った。
悲しい気持ちがあったことも嘘ではない。
でも、明らかにあの時の私は安堵していた。
それを悟られまいとして、彼の前では大袈裟なぐらいに泣いて悲しんで見せた。
今にして思えば醜いとしか言いようの無い姿だった。
でも、それを知るのは私しかいない。
だから、私さえこの記憶に蓋をしていれば何の問題も無いはずだった。
もし、私以外にあの醜い心を知る存在があるとすれば、それは──
「早希子」
その名前を口にした途端、私の目から涙が流れた。
住職さんが少し目を見開いて私に近寄る。
「どうしました? 大丈夫ですか?」
「あの子が流れたと知った時、私は本心ではほっとしてたんです。
だから、あの子が私を恨むのも当然なんです。だから、だから……」
流れる涙が勢いを増す。呼吸がままならなくなる。
半ばパニック状態になりかけていた。
そんな中、住職さんが私の肩にそっと手を置いた。
「お母さん」
「うう……うう……」
「どうか、私の話を聞いてください」
「うう……はい」
住職さんの声かけのお陰で私は少しだけ落ち着きを取り戻す。
それを認めて、住職さんは私から手を離した。
そして、再びその顔に柔和な笑みを湛えて話し始めた。
「ご存知の通り、私は職業柄、水子供養の儀式を数多く行ってきました。
そんな私が水子という存在に対して思うことなんですがね……」
「は、はい」
「あの子たちは人を恨むなんて感覚は持ち合わせていないんですよ」
「え……」
「恨みなんてものはね、
人の世の中で負の感情が積み重なって形成されるわけです。
ですが、水子の霊は人の世を知らないまま魂になった。
純粋で無垢な存在なんですよ。
人を、それも母親になるはずだった人を恨むなんて、
そんな概念すら持ってないんです」
「恨むという概念も……ない?」
「だから、『早希子ちゃん』のことをそんなに怖がらないであげて下さい。
手を合わせて真摯に冥福を祈ってあげて下さい。いつか成仏できるように」
「…………」
住職さんの言葉はあからさまに私の心を軽くしてくれた。
さっきまで止め処なく流れていた涙が急激に勢いを失くす。
でも、まだ解決していないことはある。
「それじゃあここ最近の怪奇現象は何なんですか?
あの子が私を恨んでのことじゃないんですか?」
「逆にお聞きしますが、『早希子ちゃん』は貴女や娘さんに何か危害を加えましたか?」
「え? ええと、それは……」
「不可解な怪我や病気になったり、ということはありましたか?」
「い、いいえ」
思い返してみれば『早希子』の霊の行いは、
私の周囲で気配を感じさせたり、ちょっとした物音をたてたり。
それから、上の子の遊び相手になっているぐらいだ。
私は一方的に怖がっていたけれど、よく考えたら危ない目には遭っていない。
「でしょう? 『早希子ちゃん』は悪意を持ってなどいないのですよ」
「でも、どうして成仏せずに私たちの元にいるんですか?」
「おそらく、会いたかったんでしょう。母親である貴女に。ご家族に。
ただ純粋に会いたかったんですよ。そして自分の存在に気付いて欲しかった」
「…………」
「ですから、本人が満足すればいずれ『早希子ちゃん』は成仏するでしょう。
それでも、今すぐに除霊してほしいとのことでしたら、
私としてはそのように手配いたしますが……」
「やだやだやだ!!」
住職さんが喋っている最中、その言葉を遮るように部屋の襖が開かれた。
そして、隣の部屋にいた娘が飛び出してくる。
「やだやだ! さーちゃんを連れて行かないで!!」
「あ、こら。駄目よ。ママが良いって言うまで隣の部屋にいなさい」
「やだ!! さーちゃんが言うの。もう一緒に遊べない。ごめんねって」
「え……」
「何でって聞いたら、ママに嫌われちゃったみたいだから、
遠いところに行かなくちゃって」
「……!」
「ねえ、ママ。ママはさーちゃんのこと嫌いじゃないよね?
ずっと一緒にいて良いよね?」
「それは……」
「さーちゃんが居ないと寂しいよ。居てくれないと嫌だよ。
だって、ママはいつも赤ちゃんばかりなんだもん!
ママが赤ちゃんのところに行って遊んでくれないけど、
さーちゃんはいつも一緒に遊んでくれるもん!」
「………!」
「うわあああああああああああん」
大きな声をあげて娘が泣き出した。
久しぶりに聞く泣き声だった。
その時、私は気付いた。
私が赤ちゃんに構ってばかりで上の子に寂しい思いをさせていた間、
『早希子』が私の代わりを果たしてくれていた。
彼女は、この世に生まれてくることが出来なかったけど、
それでも魂となって長女として妹の面倒を見てくれていたのだ。
それなのに私は、自身の後ろめたさから彼女を恐れてしまっていた。
「ごめん」
泣きじゃくる娘に手を伸ばし、そっと抱き締める。
「ごめん」
大粒の涙を流して私は謝った。
娘に。娘たちに。
「ごめんね」
私は初めて心から『早希子』に詫びた。
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