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伊南は、週末、なるべく実家に帰るようにしていた。自分は家を出て、一人暮らしをしているが、同じ県内に実家があった。実家には、父親と中学生の弟が二人で暮らしている。母は、伊南が中学生の時に亡くなった。それ以来、父子家庭のままだった。
家政婦さんを頼んでいるが、週3回だけである。週末の家事は、自分がやることにしていた。大学も忙しくなってきた。しかし、高校受験を控える弟のことを考えると、自分の都合ばかり言ってられない。
当然、莉子とのデートができないので、不満タラタラだ。夏休みまで、待って欲しいと言ってある。
あれから、朱音に会いたくて、弓道場に2度ほど、顔を出した。しかし、いずれも、空振りだった。
…会って、どうするのか…。言葉を交わしたくても、自分を警戒しているらしく、会話が続かない。ましてや、口説くなんて高等技術は、自分には無理だ。
今まで付き合った女の子は、全て向こうから、誘ってきた。伊南はそれを『うん、いいよ』と言いさえすれば、よかったのだ。自分から、アプローチしたことがない。どうすればいいのか、分からない。情けない。
せめて、見るだけでもいいのに、それすら思うようにいかない。
こんなことを思っている彼氏なんて、莉子は嫌だろうな…。
付き合っているからには、よそ見してはいけない。と、自分を戒める。だから、莉子のお願いは、なるべく叶えてやろうと思った。申し訳ないと思う気持ちがあるから。
弓道場に、行かないようにしよう、と伊南は決心した。どうにもならないのだから。
それなのに…。
夏休みまで、あと少しになった。しかし、医大生には、やることがたっぷりある。莉子は、行きたいところリストを作って、心待ちにしているようだ。
今日も、医科歯科大の校門で、伊南を待っていた。いつものように、車を走らせ、眼についた珈琲屋に入った。
「いらっしゃいませ!」
バイトと思しき、店員の声に導かれて、店内に入った。
その瞬間、動けなくなった。
肩に流れる艶のある黒髪が、揺れる。琥珀色の瞳で、真っ直ぐにこちらを見つめる。その目が、一瞬、大きく開かれる。
折原朱音だ!
白いシャツに、この店のロゴの入った、黒いエプロンを掛けていた。ここで、バイトしてたのか。
「こちらへどうぞ」
席に案内され、莉子と共に座る。上の空で注文する。朱音から目が離せない。朱音の白い指が、水の入ったコップを、音もなくテーブルに置く。伊南はすかさず、コップを持った。一瞬だけ、指が触れる。そこから、全身に電流が走る。思わず、朱音を見上げる。
化粧をしていない朱い唇が、ほんのわずか、開く。伊南は、それを見て、ぞくっと震えた。
「あ、すみません」
わざとではないのだ。誤解されないように、伊南は慌てて謝った。
莉子は、気付いた様子もなく、スマホを見ながら、テーマパークを検索して、あれこれ伊南にレクチャーしている。
(変な奴だと思われなかっただろうか)
心配になって、朱音を盗み見る。しかし、あまりジロジロ見ると、かえって怪しいと思われる。
伊南の耳には、莉子の話は全く入ってこなかった。全身で、朱音の気配を追っていた。
…どうしよう。
朱音が、ここにいる、という事実を知ってしまった。今後、朱音に会いたい、という気持ちを抑えられるか、自信がない。毎日のように、ここに来てたら、それはもう、ストーカーではないか。そんなふうに思われたくない。
ベッドで、莉子を抱いていても、朱音のことを思い出してしまう。白い指を、それに触れた時の感触を、わずかに開いた朱い唇を。
こんなんじゃ、だめだ、と思う。莉子が自分の彼女なのだ。ちゃんと、向き合わないといけない。裏切るようなことはできない。
伊南は、真面目と言えば、聞こえが良いが、つまりは融通が効かない、唐変木な男なのだった。
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