939人が本棚に入れています
本棚に追加
/18ページ
第1話 見つかった!
足裏に、足袋を通して、久しぶりの感触を味わう。板張りの道場に、一歩足を踏み入れた瞬間に、スッと背筋が伸びるのを、伊南は感じた。
「よお、新入生の顔を見に行こうぜ!可愛い子が入ったらしいぞ」
講義を聞き終えて、帰ろうとしたら、同期の瀬下に肩を掴まれた。同じ弓道サークルに所属している。伊南は、大学入学時に始めたが、コイツは、高校時代から弓を引いている、有段者だ。
「今日は、無理…。莉子が待ってるって言うから…」
途端に、瀬下はシラけた表情になる。
「莉子ちゃんか…。まあ、しょうがないか、彼女を待たせてるんじゃな。じゃあ、明日、実習が終わったら、行こうぜ!用事入れるなよ!」
「分かった」
弓道場か…。しばらく足を向けてなかった。この医科歯科大の4年生に進級して、にわかに忙しくなったからだ。実習の授業も増えた。講義の内容も難解になってきた。時間がいくらあっても足りない。
さらに、弓道場はこの大学内に無い。市街地を抜けたところに、市営の運動場があって、その中の武道場とされる、大きな建物に併設されている弓道場を借りているのだ。故に、毎日使うことはできない。週に2回、水曜と木曜のみだ。
伊南が所属している弓道サークルは、市内にある私立大学と合同で成り立っている。いわゆるインカレと言うやつだ。私立大学から弓道サークルに所属しているのは、圧倒的に女子が多い。しかも、初心者から始める子ばかりだ。たぶん、目当ては、医科歯科大の男子学生をゲットすることだろう。弓道そっちのけで、医大生に群がっている。
もちろん、稀に弓道を極めたいという、女子もいるだろうが…。いるのだろうか?
莉子との約束の時間に、遅れているのに気づいた。彼女とは、まだ付き合い始めたばかりなのだ。県内の短大の2年生で、一月前に告白された。前の彼女と別れたタイミングだったので、
「いいよ」
と、受け入れた。その日のうちに、自分の部屋で、セックスした。
莉子は、小柄で可愛いタイプだ。栗色に染めたボブの髪、白い肌、ピンクの唇。ふわっとした女の子らしい服がよく似合う。自分をいかに可愛く見せるか、その仕草も研究の成果だということまでは、伊南は気付かないが。
伊南は、急ぎ足で、正門に向かった。
医大の正門付近のベンチに、莉子が座っているのが見える。隣に、誰かが座っていて、莉子と話している。
莉子が、楽しそうに笑う。
…あんな笑顔、見たこと、無い。
伊南が近づいて行くと、その男が気付いて、立ち上がった。
「やっと、来たな。遅いじゃないか。莉子ちゃん、待ちくたびれてたぞ」
飛鳥井諒だ。数少ない、友人の一人。同期の中でも、一際、目立つ存在だ。なにしろ、すっきりとしたイケメンで、それを鼻に掛けない。頭脳明晰で、弁が立つ。男女共に好かれる男だ。
「莉子ちゃん、じゃあ、またね」
「諒くん、お話ありがとう。楽しかったわ!」
莉子が、去っていく飛鳥井に、溢れんばかりの笑みで、手を振る。そして、伊南に向き直って、
「諒くん、彼女いないんですってね。あんなにカッコいいのに!」
と、目を輝かせながら、言う。
飛鳥井は、特定の彼女を作らない。それは、ずっと以前からだ。足枷を嵌められるようで、煩わしい、と言っていたことがある。
駐車場に向かう間中、莉子は飛鳥井のことを話していた。アイドルの誰それに似ているが、もっと大人びていてステキ…と言った具合に。
BMWのスポーツタイプが、伊南の愛車だ。助手席のドアを開けると、莉子が滑るように乗り込む。
その後、立ち寄ったコーヒーショップでも、話題は、飛鳥井のことだった。色々聞かれたが、適当に答えていた。家庭の事などは、あまり知らないからだ。
コーヒーを飲んだ後、伊南の部屋でセックスをして、彼女の家の近くまで送っていって、デート終了。
たまに、食事をすることもある。莉子は、伊南の手料理を好まないので、予約の必要な店に連れて行くと、喜ぶ。
女の子との付き合いは、こんなものだと思っていた。どこかに遊びに行こうと言われるが、どんな所に行けばいいのかわからないし、暇が無い。
こんな中途半端な恋愛しかして来なかった自分の世界が、一変するような出会いが待っているとは、伊南は、弓道場に足を踏み入れるまで、思ってもみなかった。
最初のコメントを投稿しよう!