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翌日、瀬下に引っ張られて、弓道場に向かった。この春から、一度も行っていなかった。もう5月の半ばだから、3か月のブランクだ。更衣室で、着替えて、弓道場の建物に入ると、一斉に視線が集まるのを感じた。
榊伊南は、185センチの長身で、手足が長い。それだけでも、十分に目立つ。加えて、そこそこ端正な顔立ちをしている。ただ、目つきがよくない。人を睨むように見るので、近寄りがたい雰囲気がある。
巻藁の前に固まっていた、女子がザワめいている。
ゴム弓を使って、体をほぐしていると、その中の二人が近づいて来た。
「あのー、医大の方ですか?私達、N大の新入生なんですけど、まだ始めたばかりなんですー。教えていただけませんか?」
上目遣いに声を掛けてきたのは、茶色の巻き髪、バッチリメイク。一応道着は着ているが、胸がはち切れそうで、どうしてもそこに目が行く。
伊南が黙って見つめているのは、どうやってこの場を逃げ出そうかと考えているからだ。
「あー、何?何でも教えるよー」
瀬下が近寄ってきたのを良いことに、その場から離れて、射場に入る。彼女達はここには入れない。的前に着けるのは、きちんとした弓技を身につけた者だけだからだ。
一度、弓立に弓を置き、弓懸けを着け、鏡の前で体配を確認する。
そして、矢を4本持って、再び弓立に向かう。
自分の弓を手に取る。
「それ、私のです」
伊南は、掴んだ手を、思わず離した。
声の相手を見る。
見たことのない女子だ。射場にも女子はいるが、全て知った顔だった。
(新入生か?)
長い真っ直ぐな黒髪を、一本の後毛もなく、後ろに束ねている。切れ長の二重の目。瞳は茶色で、強い光を放っている。透き通るような白い肌、花びらのような唇。…目が離せなかった。呼吸が止まった。
「それ、私の弓です」
聞こえなかったのかと思った彼女は、もう一度繰り返した。
「えっ?」
伊南は、もう一度、弓を手に取って確認した。『15キロ』の弓だ。間違いない。女子が引くようなシロノモではない。せいぜい『10キロ』あたりだろう。
男だって、持て余すような弓を、こんな華奢な…華奢じゃない!
身長が高い。165センチ以上はあるだろうか。肩にしっかりと筋肉がついている。道着の上からでもわかるくらい。立ち姿が、堂々としている。背筋が強いのだろう。
存在感に圧倒される。
…誰だ、こいつ…。
「先輩のは、そっちじゃないですか。まだ、弦が張ってませんよ」
…忘れてた。
彼女は、さっさと伊南の手から、弓を奪うと、的前に立った。一礼をして、構えに入る。横顔が美しい。的を見る。艶やかな黒髪が、後ろに流れる。体を大きく使って、弓を引く。余計な力がどこにも入っていない。見事な立ち姿だ。引き絞ったまま、静止する。
そこから一連の動作が、伊南の目には、まるでスローモーションのように映った。
柔らかな白い頬を、一陣の風を纏った矢が、通り過ぎる。矢は、真っ直ぐに的に向かって飛んでいく。
スパンっ!と快音が響き、的が貫かれる。
伊南は、自身が貫かれたような衝撃を覚えた。
…この女を手に入れたい。
彼は、生まれて初めて、本能レベルの欲望を感じ、そんな自分に戸惑っていた。
その感情こそが、恋なのだと、このバカな男に、誰か教えてやってくれ。
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