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「しまった。出遅れた」
思わず、口の中で呟いた。
伊南は、結局、新歓に参加することにした。莉子は、文句を言ったが、待ち合わせの時間を、遅らせることにして、納得してもらった。後ろめたさは、あった。けれども、彼女への興味には勝てなかった。
会場入りの時間を、読み間違って、到着した頃には、ほぼ席は埋まっていた。会場を素早く見渡す。
(見つけた!)
お目当ての彼女は、奥の方にいた。もちろん、周囲に空いている席は無い。どうしたものかと、考えていると、
「榊先輩!ここ空いてますよ!」
という声が聞こえた。
声のする方を見ると、あの茶髪の子とその友人らしい子が、自分たちの間の席を指差している。
文句を言うわけにはいかないので、仕方なく、その席に座った。
「私、増渕絵梨花って言います。N大文学部の1年です。先輩は、医大の4年生なんですよね。お家は、病院だったりするんですか?」
胸の大きさを強調するような服で、グイグイ迫ってくる。
「ああ、まあ、そう…」
次から次へと、質問攻めだ。新歓ってこんなだったっけ。伊南は、この手の飲み会は、ほとんど出たことがなかった。こんなふうに迫られるのにも、慣れていない。
そこへ、救世主が現れた。
「ダメダメ!コイツには彼女がいるから、狙ったって無理だよ」
瀬下が、間に割って入って来た。助かった!と心底思った。
(そうか、席を移動してもいいのか)
慣れてないので、そんなことにも思い至らなかった。このチャンスを逃す手は無い。そう思って、グラスを持って席から立ち上がった。
「榊先輩〜」
声が追いかけてきたが、無視して逃げを決め込んだ。
そのまま、奥の席にいる彼女の近くまで来た。どうしようかと逡巡していると、
「ここ、どうぞ」
と顔見知りの3年生が、場所を譲ってくれた。
彼女の、すぐ目の前に座る。目が合った。彼女の眉が、少し上がる。表情が幾分険しくなる。警戒しているのがまる解りだ。
「…名前、…折原あかねさんだよね。…あかねってどう書くの?」
彼女が驚いているのが分かる。鈴を張ったような目が見開かれている。
「…朱に交われば赤くなる、の朱に、音です」
言葉を聞いていながら、伊南の目は、花びらのような朱い唇に吸い寄せられていた。
すると、さっきの3年生が、
「朱音ちゃん、彼氏とか、いたりするの?」
と、言葉を挟んだ。思わず伊南も、前に身を乗り出す。
「はい」
えっ…。
絶句する。
そうか…。彼氏持ちか…。
この朱い唇も、透き通るような白い肌も、触れることを許されている男がいるのか。
伊南の胸に、むず痒いような、叫び出したくなるような思いが、詰まってくる。朱音を見つめる眼に、力が籠る。
その時、
「おーい、伊南!莉子ちゃん、来てるよ!」
と、瀬下の呼ぶ声が響いた。
驚いて、声のする方を見遣ると、莉子がちょっと怒ったような顔で立っていた。
「時間に遅れるんじゃないかと、心配になって来てみたの!」
そして、ぐるっと見回してから、
「伊南、早く行きましょう!」
と言った。もちろん、私の男に手を出すな!という、警告だ。
仕方なく、立ち上がる。
「じゃあ、お先に…」
周囲に挨拶して、もう一度だけ、朱音を見る。
眉を顰めて、こちらを見ていた。
…やはり、俺には、チャンスはないのかな…。彼女がいるのに、図々しい!と思われているんだろうな。
伊南は、自分の思いをどうすればいいのか、持て余していた。
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