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シーツの上に、朱音の射干玉の黒髪が広がる。白い頸に、後れ毛が張り付いている。首筋に、汗が光る。
朱い唇が誘うように、開く。白い指が、伊南の猛り立った部分を撫で上げて行く。
自分の唸り声に、目を覚ました。
自分の部屋の、ベッドの上だ。
「夢だったのか…」
呟いてから、ハッとして、布団を捲り上げた。
(まいった…。中坊かよ…)
伊南は、シーツとパジャマと下着を洗濯機にぶち込んで、シャワーを浴びた。
熱い飛沫を、頭から浴びながら、自分を叱咤する。
(情けない。しっかりしろ。自分をコントロールできない人間が、人の命と向き合えるか?)
遅く罹ったハシカは、重症化することが多い。
それと、同じ理屈だ。
対処療法で、その場を凌いでも、完治しないことを、伊南は分かっていなかった。
夏休みは、実家に帰ろう、と思っていた。大学には、必要に応じて、車で行こう。時間とガソリン代が掛かるが仕方がない。
物理的な距離が生じれば、あの珈琲屋に、足が向くこともないだろう。莉子を裏切らないで済む。
だけど、あと一回だけ、行ってみよう。居なかったら、それで諦めて、実家に帰ろう。そう、自分に言い聞かせて、一人で車を走らせた。
莉子と共に、あの珈琲屋を訪れてから、一週間が経っていた。
入り口のドアを開ける。
「いらっしゃいませ!」
店員の声が、響く。
伊南は、店内を見回した。
…いた!朱音だ。
あまり、じっと見ないようにしながら、席に移動する。
別の店員が、伊南に対応する。朱音が近くに来ることはなかった。
それでも、よかった。ちらっと眺めることができただけで、充分だ。
コーヒーを飲みながら、医学書を読み、1時間ばかりその席に居座った。でも、これ以上は不自然だろうと思って、意を決して立ち上がった。
その時、朱音がすぐ近くを通りかかった。思わず声が出た。
「…あの、夏休みはどうするの?」
間抜けな質問だと思ったが、咄嗟のことなので、他に思いつかなかったのだ。
朱音は、目を見張って、伊南を見つめた。驚きから覚めると、口を開いた。
「ここで、バイトです。先輩は、彼女とデートですよね」
キッパリ、言った。
彼女持ちが、他の女に声を掛けるな!というような、ニュアンスを含んでいることが明白な、声の調子だった。
伊南は、それ以上、何も言えなかった。黙って店を後にした。
伊南がアパートに戻って、実家にいく準備をしていると、スマホが鳴った。
「時間が空いた。飲みに行こう」
飛鳥井だった。
「莉子ちゃん、楽しみにしてたぞ。夏休みに、どこ行くんだ?」
そういえば、莉子はデートの度に、うちの大学に顔を出す。飛鳥井と話すことも多いのだろう。
「…まだ、決まってない。まず、実家に行ってからだな」
飛鳥井が、呆れる。
「おい、そんなんじゃ、彼女に逃げられるぞ。前の彼女、姫加ちゃんだっけ、確か『ナンカ、思ってたのと違う!』って言われて、別れたんだったよな」
こいつ、よく覚えてるなと感心する。
「莉子ちゃんから、相談された。榊が自分を大切に扱ってくれない、ちゃんとしたデートもしてないってさ。本当に、好きなのか、不安だって言ってたぞ」
いつの間に、飛鳥井とそんな話をしてたんだろう、と不思議に思った。それにしても…。
「好きなんだろうか?」
心の声が、漏れてしまった。
「好きだから、付き合ってんだろ。毎回、会うたびにセックスしても、一回だけで終わりだって、不満言ってたよ、莉子ちゃん」
「彼女、そんなことまで、お前に言ったのか?」
さすがに驚いて、飛鳥井を見る。
「ははっ。だから、ちゃんとしてやれってことだよ」
とりあえず、忠告として、受け取っておこう、と思った。それにしても、そんなに不満だったとは…。夏休みには、彼女の希望に沿うようにしようと、考えた。
しかし、夏休みが終わって、伊南が彼女から言われたのは、
「別れましょう、私達」
という、セリフだった。
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