642人が本棚に入れています
本棚に追加
しばらく仕事の話や最近見たテレビの話など他愛もない話をして過ごした。それから目の前の雑誌を広げて、海がいいだとか山がいいだとか、ここの景色が見たいだとかドライブの行き先をあれこれ話した。尋斗は、ここが斉木の部屋という緊張と、いつ猫の話を切り出されるかという不安からいつもよりも大分缶を空けるピッチが早かった。自分でも気づいていた。このままじゃすぐに酔って寝てしまう――けれど呑んでいないとここに居られなかった。
でもやっぱり、許容量を越えてしまっていたのだろう。
「ちょっとお手洗い……」
そう断って立ち上がろうとした、その時だった。
――あ、まずい……
くらくらと視界が歪んだ。それだけで尋斗は自分が相当酔っていると判断する。そして、こうなると大抵とんでもなく強い睡魔に襲われるのだ。今までその睡魔に勝ったことは一度もない。
いつもはこうならないように酒の量を自分でセーブしているのだが、今日は意識が『猫の話』に向いてしまっていて、そこまで気が廻らなかった。
尋斗は立ち上がるどころか、上体を起こしておく事も出来ず、そのまま目の前のテーブルに突っ伏した。七倉さん、と慌てた斉木の声が聞こえるが、もうそれに何かを返すことも難しい。
「七倉さん? 大丈夫ですか? ……寝ちゃった、の、かな……」
斉木は、すっかりテーブルに体を預けてしまっている尋斗に声を掛けてから寝室へと向かった。大丈夫だから、と全力で止めようとしたけれど体に力が入らない。結局尋斗はろくに立ち上がりも出来ず、ソファに倒れこんだ。斉木の匂いのするそこがとても気持ちよくて、尋斗はうとうととしながら体を丸くする。
――だめだ、落ちる……
無意識に両手を組んだ尋斗は重たい瞼を持ち上げることが出来ず、そのまま目を閉じた。遠ざかる意識の向こうで足音が聞こえる。斉木が戻ってきたのだろう。まあでもいいや、このまま寝てしまおう――そう思った次の瞬間だった。
「七倉さん、七倉さん!」
激しく体を揺すられて、尋斗はうつろに目を開けた。
「……斉木、くん、悪いけど……」
寝かせて、と言う尋斗に斉木は、あの猫、と口を開いた。
「やっぱり七倉さんだったんですか? もしかしたらってずっと思ってたんです。寝る時の格好もまるきり一緒だし、毛色も七倉さんの髪の色と同じだし、眼の色だって……」
その言葉に尋斗の頭はあっという間に覚醒する。眠気も酩酊感もどこかに飛んで行って、すぐに体を起こした尋斗は、バカ言うなよ、と答える。
「どこの世界に猫になれる人間が居るんだよ。漫画やアニメじゃあるまいし」
疲れてるのか? と尋斗が笑う。何度もシミュレーションしただけのことはある。我ながら満点の反応だ。けれど斉木は揺るぎない視線をまっすぐに尋斗に向けていた。
「ホントのこと、言ってください。俺、七倉さんの言うことなら、何でも信じますから」
その目は冗談を言ってるものではなかった。酔っているからこんなことを言っているという風でもない。だからこそ悔しかった。自分を通して猫を見ている斉木が遠すぎて切ない。どうして自分自身に嫉妬などしなきゃいけないのだ……そう思うと、寂しかった。尋斗は、ぐっと拳を握り締め、斉木に鋭い視線を向けた。
「だったら、どうだっていうんだよ……僕があの猫だったらどうなんだよ!」
尋斗は声を荒らげ、斉木を見つめる。驚いた顔に、尋斗は更に言葉をぶつけた。
「あの猫が可愛かったから、また猫になれって? それでまた斉木くんに懐けばいいのか? ……僕だってそうしたい。好きな人とふたりだけの世界で生きられるならどんなにいいか……でも無理なんだ。僕は人間なんだよ。もう、あの猫にはなれない」
自分だってあんな体験は信じられない。薬ひとつで猫になるなんて、尋斗だって夢を見ているのだと思ったのだ。あの薬だって手に入らない。もしあんなことが現実だったとするなら、本当に神様の気まぐれで退屈しのぎに遊ばれたのだろう。
だからもう、二度とあんな奇跡は起きない。
尋斗は一息に言うと、傍らに置いてあったかばんを取り上げた。
「……帰る」
尋斗は静かに告げて、多少ふらつく足で玄関へ向かった。頭の中はすっかり覚醒したが、体にはまだアルコールは残っているようだ。でも止まるつもりはなかった。
「七倉さん、待って!」
尋斗を追う斉木が、腕を掴んで尋斗を止めた。そのまま胸に抱きしめると、顎先に手を掛け顔を上げさせる。あっと言う間の出来事で尋斗は抵抗する間もなかった。
どういうことだ、と思う間もなく、斉木の唇が自分のそれに重なる。薄く開いた唇の隙間から舌をねじ込まれ尋斗のそれを絡め取る。わけもわからず深いキスを施されて、尋斗の頭の中は完全にショートした。
「……帰る!」
尋斗は思い切り斉木の体を押しのけて、逃げるように部屋を後にした。
背後で斉木の声がしたが、尋斗は廊下を走り、急いで外に出た。通りを駆け抜け、さっき斉木と二人で寄ったコンビニの前で立ち止まる。上がる息を整えながら振り返るが、斉木が追ってくる様子はなかった。
「……何? なんなんだよ、あれ……」
そっと唇に触れてみる。少し濡れたそこには、まだ斉木の唇の感触が残っていた。
温かくて柔らかいそれは、とても幸せなもののはずだったのに、今はただ切なかった。
しゃがみ込んだ尋斗は、動揺とアルコールのせいでしばらくその場から動けないままだった。
最初のコメントを投稿しよう!