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 午前九時前、七倉尋斗(ななくらひろと)は所属する営業一課のオフィスに置かれたコーヒーマシンの水をセットしてから、大きく伸びをした。  尋斗の朝の仕事はいつもここから始まる。 「七倉、おはよう。俺にもコーヒー淹れて」  コーヒーが落ちるのを待っていた尋斗にそう声を掛けたのは同僚の三井(みつい)だった。  ぼんやりとしていた尋斗とは違い、今日も元気そうで羨ましい。  尋斗はそれに笑顔で、おはよう、と返してから、自身のカップを手に取り、新しいカップをマシンにセットする。 「それで、お願いついでなんだけど」 「……見積もり? いつまで?」  三井がこういう言い方をする時は大体急ぎの書類がある時だ。尋斗はため息まじりに聞き返す。すると三井は、さすが七倉、と表情を緩く変えた。 「今日の午後イチで持って行きたいんだけど、七倉なら出来る、よな?」  昨日渡すの忘れてて、とバツの悪そうな顔をする三井に、尋斗は笑って頷いた。  営業に籍を置きながら、事務処理を担当している尋斗が断れるはずがない。 「午前中に片付けるよ。資料、共有にしておいて。出来たらメールで送る」 「助かる。そうだ、今日の昼戻るから、奢らせて?」  いつもギリギリで申し訳ないから、と言う三井に尋斗は首を振る。 「僕の仕事だから、大丈夫。それに今日、弁当なんだ」 「そっか……じゃあ資料あげとくな」  尋斗は三井の言葉に頷いてから、自分の席に戻った。パソコンを立ち上げている間、尋斗は一課のオフィスをぐるりと見渡す。次々と社員たちが入って来て、みな早々に席を立ちホワイトボードに『外出』と書いて出かけていった。いつもと変わらない光景だ。尋斗は、そのホワイトボードを見つめた。一人の社員が駆け寄り、『斉木(さいき)』の欄に『GS』と書いていく。途端、尋斗は人知れず落胆する。  ――斉木くん、今朝も出社しないんだ……  尋斗は手元に視線を落として、浅くため息をつく。尋斗よりも二つ年下だが、既に一課のエースである斉木悠星(さいきゆうせい)が朝会社に出ることは滅多にない。大概家からそのまま営業先へ行き、資料を整理するため午前中に一度戻るけれどすぐにまた外回り、オフィスへ戻ってくるのは午後七時を過ぎてから、というのが日常だった。  尋斗がここまで斉木の行動を知っているのは、当然いつも見ているからだ。知らず、視線は彼の横顔や背中に惹きつけられ、気がつけば彼を目で追っている。――好きだった。最初に惹かれたのは、笑顔だった。それまで厳しかった表情が、同僚の一言で一気に崩れたのを見たら、胸の高鳴りをおさえる事は出来なかった。それから彼を知るたびに一つずつ好きなところが増えていって、気づいた時には、恋をしていた。  それでも、事務処理くらいしか能のない窓際社員を、営業イチの売り上げとルックスを持った斉木が気に掛けるはずもない。尋斗は、この想いを本人に告げるなど絶対にしないと決めていた。第一、こんな冴えない男に思われても、気持ち悪くこそあれ嬉しくなんか思わないだろう。この想いは、害にしかならないのだ。 「さ、仕事しよ」  尋斗は沈みかけた気持ちを無理矢理引き起こしてパソコン画面に向かった。尋斗の仕事は、ほとんどこの席で済んでしまう。というのも、尋斗は外回り営業というのが大の苦手だった。元々総務を希望して入った会社だったのに、人員調整で結局営業に配属されてしまった。初めはなんとか頑張ろうと思ったのだが、精神的にも体力的にもきつくなり、辞職を決意した。けれど、そこで課長が講じた案が現在の尋斗だった。  外回りの営業はしなくていい。その代わり、課員全員の事務処理を担当しろ――課長に言われ、尋斗は少し悩んだが、いざやってみると自分にはこういう仕事が合っているようで負担に思うこともなく現在まで続けられている。煩わしかった事務関係がなくなったお陰なのか同僚たちの営業成績も上がり、今では誰からも文句を言われることなく尋斗は営業に席を持っている。  尋斗の日常は限りなく地味だったけれどとても平穏だった。
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