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会いたいなんて思う人は、1人もいない……そんなことは、ない。
そうだよ、そんなことはないんだよ。
とカンガイに耽ってみる端から、タケルは涙がこぼれそうである。
だけど、泣いてなどいられない。
そう、泣いてなんていられない。そして、
タケルは泣かないままに、嗚呼、ラーメンを食べたいと思った。
そう、嗚呼である。ああである。あーなのである。
わけもなく食べたいと願ったわけではない。
会いたいなんて思う人は1人もいない、でもそんなこともないのだと思わせてくれるあのひとは、ラーメン作りが上手だった。
日夜スープや麺づくりの研究を続け、いつかは店を持つのだと夢見ていた。
今にもラーメンを食べたいと願うタケルは、お腹いっぱいになったら眠くなる、そう思えば、あのひとの子守歌など訊きたいとも思った。
そう、あのひとは、子守歌を歌うのも上手だった。
エアギターをかき鳴らす振りをして、軽快なメロディーラインを口元から響かせて、いつもタケルをうっとりさせた。
あ、もうたまんないや、眠いよ眠いよキモチいいよと眠りの世界へといざなわれそうな自分を、シアワセだとタケルはすなおに思えた。
ラーメンを食べたい、子守歌も聞きたい、うん、食べたい、聞きたいと願い続けるタケルは、そうだ、あのひとは、子供も好きだったのだと思い出す。
ラーメン屋でヒト勝負して、オカネモチになってやったアカツキには、幼稚園なんてのを経営してやる、そんな夢が叶ったらサイコーだろうなぁと真面目な顔で言った。
かわいい子供達とわいわいやりながら、お昼ごはんには、手作りラーメンを振る舞ってやるんだと楽しそうに笑った。笑うと、並びの整った真っ白いが、憎たらしいほど両目を清々しくさせ、ああ、やっぱりコイツのことが好きだな、とそのたびタケルは思ったりしたのだ。
だが――
あのひとはラーメン屋を開業することはなかった。
スープや麺づくりの研究は続けていたが、「日々の暮らしにカマケテイル」とあのひとは愚痴をこぼし、夢はやっぱり夢のままで終わるのかなぁと寂しそうに遠くを見た。
会社勤めを思い切って辞めたらどうだとタケルは勧めた。
生活の面倒ぐらい、自分が見てやれないこともない。
公認会計士をめざして勉強中のタケルには、親譲りの資産があった。
しかし――
きみに甘えたくはないとあのひとは承諾しなかった。
つまりあんたはオレのことが好きじゃないんだな。だから、甘えてくれないんだなと悲しがるタケルに、そういうモンダイではない、とあのひとは言い切り、
♬挫折も人生の一里塚、地道に超えてこそ咲く花もある、
と節を付けて歌った。
新バージョンの子守歌だ、とエアギターをかき鳴らし、タケルをまた眠りへと誘う。
やっぱりコイツのことが嫌いになれないなとタケルは快く目を閉じ、あのひとの膝枕に甘えながら、眠る振りをしてみるのだ好きだった。
学生時代の釣り同好会などというもののメンバー同士、気楽に出会った2人だったが、妙に気が合い、これからも、まあ長らくと付き合っていくのだろう、と無理なく思わせてくれるあのひとの膝は、いつだってアッタカなのだとタケルは狸寝入りであろうが、目を覚ましたくなかった。
ところが、あのひとはそれから程なくして、会社を辞めた。
「おッ、辞めて、ツイにホンカク的なラーメン修業かよ」と勇むタケルに、
そうじゃなくってーとあのひとは、実は実家の酒屋を継ぐことになったんだと頭を掻く真似をした。
跡取りの長兄の体調がこのところ芳しくなく、この辺りで自分が本腰を据えて跡を継ぐ構えを見せて、親を安心させてやりたいのだという。
ヒト言「ゴメン」とあのひとは謝り、きみともさよならだな、今までいろいろアリガトな、と別れの言葉を口にした。
そ、そんなのってアリかよ。暫し呆然とした後、悔しくなって、あのひとの片頬を殴る振りまでしたタケルは、泣いていた。
ゴメン、ゴメンよと謝り続けるあのひとに、タケルはもう何も言えなかった。
独りになったタケルは、公認会計士になるための勉強に励んだ。
寂しさや悲しさを忘れるために勉学に熱中するというのもどうかと思ったが、成果は上がって、翌年、試験に合格し、会計事務所への就職も決まった。
恋人などは出来ないままであったが、いい仕事をして顧客が喜ぶ顔を見たりするのはやはり嬉しい。
あのひとは、どうしているかな。ふっと思ったりもしたが、仕事の忙しさが、良い意味であれこれの雑念を忘れさせてくれるようなところがあるのには救われる思いがした。
このまま、この調子でやって行けば良い。
朝の通勤ラッシュから始まって、あれこれと仕事をこなす日々が続く。
気が付けば、あと1年や2年で、三十歳にもなろうかとしていた。
「ミ、ミソジかよ~」
頭を掻いて、照れくさがる振りをする自分が、タケルは厭でない。
だが、イチマツの寂しさというものを感じていないかと言えば、やはりそんなことはない。
どうしてるかなぁ、とあのひとのことをふと想う、思い出す時間もないと言えない。
それでも、毎日の仕事を、タケルは着実にこなす。
顧客からの評判もますます上々、上司からのお褒めの言葉も頂戴する。
まあ、わるくはない暮らしってものを、この自分は送っているのか。
そう、そうなんだ、とタケルは頷き、仕事の有り難さを思った。
――そんなタケルに、ある日のこと、不意に届いた1通の手紙。
宛名は印刷体だが、封筒裏には自筆であのひとの名前と今の住所がある。
『祝開店! ついにこの日がやってきました。
オレ、ラーメン屋さんにとうとうなったよ。
結婚もしたよ。妻と二人で、ナントカカントカやっていきたいと思っています。
こちらに来ることがあれば、寄ってくれ』
継いだはずの実家の酒屋の方は、どうしているのか。そこらあたりについては、何も書かれておらず、タケルは腑に落ちない思いもしたが、読み進めると、継いだ酒屋は、近所で商売を始めた格安販売のショップに押されて、店仕舞いの憂き目を見たが、思い切りよく売り払い、入ってきたその金を活かして、ラーメン屋の開業と相成ったのだとのこと――ともあれ、いろいろあったのだろうが、念願のラーメン屋の「祝開店!」それは間違いのないことなのだろう、とタケルは祝したいばかりの気持になった。花輪でも贈るべきか、と案じたが、さすがにそれは大袈裟かと止めにした。
――いつか、行きたい。いや、いつか行くよ。
素っ気なさは承知のうえ、それくらいの返事しか、タケルには書けなかった。
それにしても結婚かよー、お知らせもなかったなー。タケルはまたふと泣きたくなったが、ガマンした。
……1年、2年が過ぎた。
タケルの仕事ぶりはいちだんと好調で、会計事務所でも肩書が付いた。
三十歳のお祝いだな、おめでとう、これからも期待してるぞと上司から肩を叩かれ、タケルは頬を紅潮させて、ハイと応えた。
そんなタケルには、他府県への出張仕事も多くなってきていた。
アタッシュケース片手に特急電車に乗る日々は多忙ながら、苦にならない。
遺産相続、納税のアドバイス等々、依頼人のお悩みに付き合い、より良い答えを与え、感謝される。
仕事を終え、宿に戻って、その土地の旨い酒や名物料理を味わうのも楽しみだった。
しかし、もう一つ、タケルには、期する気持があった。
あのひとのラーメン屋というものに、出張のついでにやって来た、とそんな構えで寄ってみたい、そう思うようになっていたのだ。
願いが通じたか、チャンスは程なくやって来たかに見えた。
あの人からのラーメン屋開業の知らせが届いた半年ほど前に、1度行ったことのある小売業の社長から、久しぶりの仕事の依頼が舞い込んだのである。
あの人がラーメン屋を経営する、その県の県庁所在地に在る会社である。
ツイにかーとワクワクと平静でいられない気分になったタケルだったが、残念にもその予定は急に消えた。小売業の社長が事故に遭い、仕事は流れてしまったのである。
まあ、こればかりは仕方ない、こうしてコトがうまく進まないこともあるのだとタケルは諦め、次のチャンスを待った。
それでも、あのひとからは年賀状なり暑中見舞いのハガキなりが届き、
『お元気ですか? こちらは、まあまあとやっております』とカンタンな文面であったが、タケルはその度、ホッと息の付く気持になった。
カッコ付けてるばかりが能じゃないかな、とそのうち、そんな気分にもさせられた。
そうだ、出張仕事にかこつけて、なんて、ポーズを付けてるのはいいかげんカッタルイってもんだ。
行ってみよう、行って、あの人の拵えるラーメンを食べよう。
決心したタケルは、次の日曜の早朝、電車に乗った。
思えば、2時間余りで行ける距離。だが、長いとも短いとも今更タケルは感じない。
フフフンと何かの歌でも口ずさみながら、車窓の光景を眺め、ライトビールなどちびちび飲んでいるうち、到着する。
休業日は、毎週月曜。日曜日はちゃんと営業している。所在地などはアプリ検索でむろん疾っくに承知済みであるのだし、マップ画面を頼りに、あっけなく、タケルは、あのひとの店のドアを、もう開けた。
――いらっしゃい。
ドアを開けた瞬間に、忘れているわけもないあの人の快活な声で、自分は迎えられる。
自分が自分であることを一瞬で確認するあのひとは、あっれーなんて声を上げて嬉しがる。周りのお客を驚かせるほど相好を崩し、自分も、ようようと快活にこたえる。
そんな光景を思っているばかりのタケルだったが、現実は違っていた。
いらっしゃいと声は掛かったが、ドアを開けての数秒遅れ。あまり元気のなさそうな女性の声だ。
あ、どうも、なんて思わず拍子抜けの声を、タケルは返すことしか出来ない。
お客は他に、地味な服装の中年男性と、学生風の若者だけ。
昼時に近いのに、まあ、こんなものなのかと息を付くようなタケルは、「ご注文は」とカウンターの向こうから訊ねる女性に、「チャーシューメンを」とそれだけ頼む。
このひとが、あのひとの奥さんなのだろうか、と顔色の良くないの女性を見るが、目の前に水のコップが置かれてから、ご主人はいらっしゃらないですか、とようやく訊いた。
「ええ、ちょっと急用ができたとのことで。1時間ほど前、出て行きまして……」
それから口籠る様子の女性に、タケルは言葉を続けた。
「ご主人とは、昔からの友人でして。お店を持たれたことは知っていたのですが、今日ようやく来れまして……」
この場合のご主人という言葉は便利だ、有り難くもある。店の主人と、この女性の配偶者、その両方の意味合いをおのずと兼ねる。
昔からの友人と言われて、女性は、あっと表情を明るませて、タケルを見た。
それでも、「奥様、ですか」と訊かれると、とんでもないという風に、女性は顔の前で手を振って、少し笑った。
「手伝いの者です。時々、お手伝いに来ています」
「ああ、そうでしたか。失礼しました」
そんな会話を交わしたところで、中年男性と学生風の客が続けて勘定を払って店を出て行った。
女性は、遠慮なく話が出来るとでも言った顔になって、今朝の仕込みが終わった頃に病院から電話が掛かって来まして……と打ち明ける。
「3人目なんですけどね。ええ、お子さん。奥さんが急に産気付いたとのことで、ご主人はすぐ出掛けられました。予定日より、かなり早いってことで、心配だとおっしゃって。でも、だいじょうぶみたいです。さっき、電話があって。自分が到着する前に、もう生まれていた。母子共に健康だとのことです」
良かったですねえ、とすなおに祝福の言葉を向けることが出来て、タケルはホッとした。
タケルは、チャーシューメンのスープをすすり、「旨い」と呟き、かための麺をゆっくり噛んだ。
1週間が過ぎて、あのひとから手紙が届いた。
『――このあいだは、店に来てくれてたそうだね。会えなくて、残念でした。久しぶり、君の顔を見て、話をしたかったが、まあ、またの機会もあることでしょう。
子供は無事に生まれ、母親共々、退院も間近です。長男長女と続いて、3人目は男の子でした。どんな名前にしようかと迷っていますが、これもまた楽しい時間というやつでしょうか。きみの方は、どうなのかな。きみのことだから、しっかり仕事をこなして、そうだね、人生の基盤ってものを着実に築きあげているんだろうなって、思っています。
会える日を待っています。元気でね』
けっこう達筆なペン書きの手紙を、タケルは2度3度と読み返した。
ジンセイのキバンかぁ、とちょっと笑ってみるのが何だか愉快だ。
あのひとこそ、着実に堅実に、そのキバンってものを拵えているのじゃないかよ。
もう3人の子供のオヤだって、とタケルはまた笑う。
子供好きを自認して、子守歌を歌うのも上手だったが、さて、ラーメン屋で儲けて、幼稚園を開きたいと言っていたことなど、あのひとは覚えているだろうかと思い返せば、タケルはまたほっこりとした気持になって、少し微笑む。
そうしながら、あのひとの店で食べたチャーシューメンの味を思い出す。
食べ終えた後も、こってりと旨味のあるスープの感じが、口に残っていた。
また食べたい、食べに行こう。
今度こそ、あのひとに会おう。
――そして、
タケルは、満員電車に乗って、今日も会計事務所に通う。
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