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遠い遠い海の底に人魚たちが暮らしておりました。海の王には6人の娘たちがいましたが、その中でも末の娘の人魚姫は誰よりも美しく、綺麗な声を持っていました。
人魚姫は15の誕生日の夜に、初めて上がることを許された海の上で、船に乗った王子様に一目惚れしてしまいました。
荒れ狂う嵐の海で溺れる王子を助けた人魚姫は、人間になって王子と一緒に暮らすことを夢に見て、海の魔女から誰よりも綺麗な声と引き換えに人間の足をもらいます。人間の足を手に入れた人魚姫は王子と一緒に宮殿で暮らし始めましたが、声を失ってしまったので嵐の海での出来事も、王子への想いも告げることができませんでした。
それでも幸せに暮らしていた2人でしたが、隣国の王女様をあの夜助けてくれた恩人だと勘違いした王子は王女様と結婚してしまいます。
嘆き悲しんだ人魚姫でしたが、5人の姉たちに人魚に戻れる方法を教えてもらっても、幸せそうに眠る王子を殺すことなんてとてもできずに夜明けと共に海の泡へと消えていったのでした────と、ここまでは小さな子供だって知っている人魚姫の物語です。
ここで少しだけ、誰も知らないもう1人の人魚の秘めた想いのお話しをしましょう。
ちょうど人魚姫が泡になって海に溶けていった頃、遠い遠い海の底の、もっと深くて暗い洞穴の中から誰よりも綺麗な、けれどとても悲しい歌声が小さく静かに波を揺蕩うよに聴こえてきます。
その洞穴には海の魔女が住んでいました。ウツボやらサメやらが近くを泳いでいるそこは、小さな魚も大きな魚も、人魚たちでさえ滅多に近づかない、冷たくて恐ろしくて少し寂しい場所でした。海の魔女は一人窓辺に腰かけて海面を見上げていました。海面と言ってもここは海の底の、さらに深くて暗い所でしたから、太陽の光なんてものは届かず波間に海藻がゆらゆらと揺れているだけでしたが。
『〜〜♪〜〜〜♪』
海の魔女が口を開くと、誰よりも綺麗な歌声が冷たい海水の中を泳ぐように流れていきます。それは海の魔女が人間の足と引き換えに奪った人魚姫の声でした。海の魔女が首から下げている小さな巻貝のペンダントから、その歌声は紡がれます。
「本当に、いつ聞いても飽きないほど綺麗な声だこと」
海の魔女は歌うのをやめて、人魚姫の姉たちからナイフと引き換えに奪った美しい色とりどりの髪の束を手に取りました。指を入れて梳いてみたり、ひと房とってくるくると絡めて遊んでみたり。海の王の娘たちの髪の毛はどれも本当に美しいですが、やっぱり末の人魚姫の透き通るような金の髪が1番美しいなと海の魔女は思うのでした。
海の魔女は自分の、海底火山がうねる時のような低く嗄れた声が嫌いでした。ほかの人魚たちのようにふわふわキラキラした髪とは正反対の、真っ直ぐで蛸の墨のように真っ黒な髪が嫌いでした。──でも海の魔女は知りませんでした。陸に住む人間たちからすれば、低くかすれたハスキーボイスも、癖のないビロードのような夜の帳にも似た黒い髪も、ほかの人魚と何ら変わらぬ美しさを持つということを。海の魔女はずっと独りで暮らしていましたし、人間たちだって遠い遠い海の底のさらに深く暗い所に人魚が住んでるなんて夢にも思っていないのですから、知る由もないのは仕方の無いことでしたけれども。
「......愚かな子」
海の魔女は人魚姫が初めて洞穴を訪れた時のことを思い出していました。
「.........それで?その人間の王子に会いたいから、人間の足が欲しいって?」
『はい、私どうしてもまた王子様に会いたいんです』
「...王子はあんたのことを覚えてないんだろ?人間になったところで一緒になれる保証はないだろう」
『それでも、1度でもいいから私に笑いかけて欲しいんです!魚の尾びれじゃなくて、人間の足であの人の隣を歩きたい...その為なら海の底で暮らせなくなったって構わないんです!』
海の上の名前も知らぬ王子を想って悩ましげにゆがめられた人魚姫の表情に、海の魔女は何故だか胸の奥がざわざわと波立って、わけも分からずイライラとしてつい意地悪を言ってみたくなりました。
「あんたの尾びれを人間の足にしてやるのは簡単さ、でも人間になったあんたのことをその王子が好きにならずにほかの女と結婚してしまったら、あんたは海の泡になって消えてしまうからね。代償は、そうだねぇ......あんたの声なんてどうだい?」
人魚姫の歌声は誰もが聴き惚れるほど美しく、人魚姫自身も歌うことが好きだったため、毎日のように海の底に響いていました。もちろん、海の魔女が住む洞穴にも。
『私の声をあげたら、人間の足をくれるんですか?』
「そうだよ、その代わりあんたは二度と歌も言葉も紡げなくなる」
海の魔女は人魚姫が歌うことが好きなのを知っていましたから、その声を失うと分かったらきっと人間になんてならなくていいと言うだろうと思いました。それにもし恋が叶わなければ海の泡になって消えてしまうのです、きっと恐ろしくて王子のことなど諦めてしまうだろうと。
けれど人魚姫は少しも悩むことなく声を差し出しました。人間になれる薬を渡して声を奪うその前に、海の魔女に満面の笑みでありがとうとまで言ったのでした。
海の魔女はなんだか面白くありませんでしたが、ありがとうなんて言われたのは生まれて初めてだったので、最初はそんなつもりがなかったのに人魚姫の願いを叶えてしまいました。でも海の魔女は心配になりました。だって人間になったとして、王子と出逢えたとして、あの美しい声がなくては想いを伝えることも出来ないからです。海の魔女はこっそり水晶玉を使って人魚姫の様子を見守ることにしました。
人間の足を手に入れた人魚姫は、その姿を見て大層嬉しそうでしたが、歩く度に激痛が走るようでとても大変そうでした。
「足って不便なのね、わたしには無いから分からなかったわ。人魚姫は辛くないかしら?」
まともに歩けず口もきけなくなってしまった人魚姫を助けたのはあの王子様でした。王子は人魚姫の事を覚えていませんでしたが、歩く練習に付き合っているうちに日に日に人魚姫に好意を持っていくようでした。
「ふんっ!人魚姫に助けてもらったことも覚えていないくせに、恩人面しちゃって......!」
王子は嵐の海での出来事をぼんやりと覚えているようで、その時助けてくれた恩人を探しているんだといつかの日か人魚姫に話しましたが、人魚姫はそれが自分だと伝える手段がありませんでした。海の魔女は人魚姫が可哀想だなと思いましたが、同時に王子が人魚姫に気付いていないことにほっと安堵してもいました。それが何故なのか、その時の海の魔女にはちっともわかりませんでしたが。
「まぁ!なんてこと!!」
ある日の事、いつものように水晶玉で人魚姫の姿を眺めていた海の魔女は驚きと怒りで大きな声を上げました。
その声は地鳴りのように海を震わせ、近くを泳いでいたサメたちは吃驚して岩陰に引っ込んでしまいましたし、海を伝って波になったそれは海面でちょっとした津波を引き起こす程でした。
それ程までに海の魔女が驚いたこととは、そう、王子の結婚話でした。最近では人魚姫を自分の宮殿に住まわせ、朝と夕とずっと一緒に居たにも関わらず、隣国の王女とのお見合いの場で人魚姫にそっくりな王女様の事をあの夜の恩人と勘違いして結婚を承諾してしまったのです。
あの時の命の恩人を見つけたんだ!あの人こそ僕の運命の人だったんだ!と、人魚姫が深く傷ついていることにも気付いていないようで王子はずっと話し続けます。
「......なんてやつ!!一国の、それも王女が、あんな荒れた海の中を意識のない人間一人助けられるわけないじゃないの!!馬鹿な男!!!」
海の魔女は水晶玉に映る浮かれた王子の顔に、水晶玉を叩き割りたくなるのを必死にこらえました。それから海の魔女は思いつく限りの悪態を、遠い遠い陸の上にいるバカ王子に向かって叫び続けていました。そうしていると、人魚姫の5人の姉たちが海の魔女の洞穴を訪れました。
人魚姫が心配になった姉たちは、海の魔女に妹を人魚に戻す方法はないかと頼みに来たのでした。
「お前たちのその美しい髪と引き換えに、このナイフをあげよう。このナイフで王子を刺して返り血を浴びれば、人魚姫は元の姿に戻れるよ」
人魚姫の5人の姉たちは、髪の毛で妹が助かるならと喜んで髪を差し出しました。海の魔女は別に姉たちの髪が欲しかったわけではありませんでしたが、人魚姫と血の繋がった姉たちが羨ましかったのかもしれません。なにより海の魔女はあの王子のことが大嫌いになってしまいました。元々好きではありませんでしたが、それでも人魚姫の一目惚れの相手です。人魚姫が幸せになれるのなら...とも思いましたが、海辺で1人泣いている人魚姫の姿が水晶玉に映ったのを見て、あの王子さえいなければいいのだと思うようになっていたのでした。人魚は涙を流しません、人魚姫は人間になってしまったせいで海水のようにしょっぱい涙を流す羽目になってしまったのです。海の魔女はそれが許せませんでした。
5人の姉たちが人魚姫にナイフを渡したら、そのナイフで人魚姫が王子を殺して人魚に戻ったら、あの時奪った声を返してあげようと、海の魔女は小さな巻貝のペンダントをそっと優しく握りしめました。
.........けれど、誰よりも綺麗なこの声が、人魚姫の元に戻ることはありませんでした。人魚姫が、人魚の姿に戻ることはなかったからです。
海の魔女は洞穴の窓辺に腰掛けて、独り静かに歌を歌います。
『〜♪〜〜、〜♪』
今日、海の上ではいつかの日のように王子を乗せた船が帆を張って浮かんでいました。王子と隣国の王女の婚約を祝うパーティーの為でした。海の中には存在しないご馳走の美味しそうな香りや、素敵な音楽や、華やかに空に咲く花火の光。でも、それらが海の魔女の元に届くことはありません。だってここは太陽の光さえ差し込まない、遠い遠い海の底の、さらに深くて暗い所なのですから。
「愚かな子......愚かな、...愚かなのは、わたし.....っ...」
人魚は涙を流しません。ですからどんなに悲しくとも、寂しくとも、苦しくとも、海水のようにしょっぱい涙に替えて流すことはできません。海の魔女はかわりに歌を歌います。毎日のように聴こえていた、美しくて優しいあの歌を。人魚姫の、誰よりも綺麗な歌声で歌っているのですから、あの日々のように温かい歌になるはずなのに、この歌にはもう優しさも温かさも残ってはいませんでした。綺麗で美しいけれど、哀しくて、冷たい歌でした。
「この声が欲しかったんじゃないわ」
「綺麗な髪が欲しかったわけでもないわ」
「えぇ、えぇ...わかるわ。今ならわかる、あんたが言っていたこと──」
ただひとめ会いたくて、一度でいいから笑いかけて欲しくて、たとえ海の泡になって消えてしまったって構わない。
誰も知らない、海の魔女の秘めた恋のお話──
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