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 仕事が終わってオフィスビルを出たのは、日付が変わる直前だった。  ひんやりとした風に目を細め、腕時計に視線を落とすと、時刻は午後十一時五十分。残業には慣れている晶久だったが、心労からか体から血液が抜けていくように全身が重い。  ずっと考えないようにしてきた。目を背けてきた。のに、不意に目に飛び込んできた『返還可能期限』という言葉で、急に世界から色彩が失せた。  歩きながらスマホを取り出し、メッセージアプリを立ち上げ、〈サツキ〉とのトークページを開くと、一言「今から帰る」とだけ打ち込んで送る。  ディナーに行くと言っていた彩月も、すでに帰宅しているころだろう。  そんなことを考えながらメトロのエスカレーターを下る晶久。地上の冷ややかな空気が少しだけ遠ざかり、ようやく家に帰れるという実感がじわじわと押し寄せる。  改札に定期をかざして通り抜け、その先にあるエスカレーターを下って人気(ひとけ)のないホームに降り立つと、電光掲示板を確認するために視線を上げる。  その時だった。  不意に反対側のホームから、聞き覚えのある声が耳に届いた。 「大丈夫、今日はディナーに行くってあの人には伝えてあるから」  人気(ひとけ)がないからか、あるいは知っている声だったからか。定かではないが、その声はわざとらしいほどやたらと甘ったるく跳ねていた。  ずっと考えないようにしてきた。目を背けてきた。  その可能性に。その不安に。  晶久は案内板に向けかけていた目を、ゆっくりと反対側のホームへスライドさせる。 「だから、今夜はずっと一緒にいようよ」  そう付け足した声の主の視線の先には、いつも晶久がいた。どんな時も、晶久がいたはずだった。  でも、今その視線を独り占めしているのは彼ではなく、彼の知らない男だった。  二人はまるで恋人同士のように指先を絡ませ合い、甘い視線を交わらせ、世界中に二人しかいないみたいにふるまっていた。  全身からゆっくりと力が抜けていく。膝に力が入らなくなり、冷たいコンクリートに崩れ落ちる。その時、ホーム内に列車が入ってくる旨のアナウンスが流れた。  直後、晶久と彩月の間にあった目に見えないほどの細い細いつながりを引き裂くように、風をまとって列車がホームに入ってきた。そして発車した時には、名前も顔も知らない男も彩月の姿も、もうどこにも見当たらなかった。
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