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あなたに会いたい
「あなた、また水道が出しっぱなしですよ」
「えっ?そうか?止めたはずだけどなぁ・・」
最初はこんな会話から始まった。
若年性アルツハイマー病、その中でも前頭側頭型認知症と診断されて半年、あっという間に進行してしまった....まだ、40歳過ぎ。
わたしは仕事を休職して主人のサポートをし始めた。
少しでも進行を遅らせる為にできる事はしてきた....だけど
どんどん進行して、今は1人で外にも行けなくなった、帰る道を忘れるからだ。
食事をしたかどうかも、覚えていない。
同じことを何度も言う、ただ言ってくれるだけマシだそうだ。その内、喋る気分もなくなり会話も出来なくなる。
「ねぇ、あなた夜は何が食べたい?」
「そうだね、お刺身が食べたいなぁ」
「わかったわ、もう少ししたらスーパーにお買い物に行きましょう」
一緒に出掛けて、ふらっと1人でどこかに行かない様にもしないといけない。だから、もしもの為に首には名前と連絡先を書いた札をぶら下げている。
店内でお刺身を、選んでいる時。
あなたは、少し離れた売り場でお菓子を見ていた。
近寄って、
「それ食べたいの?」って聞いた時。
誰ですか?って顔をして、あなたは一瞬考えていた。
とうとう、来たのかなと...
そうなの?やっぱり私の事もわからなくなってきているの?
帰りには不安そうな顔が見てとれて。
まだ、わかるようなわからないような、どこかに連れて行かれる様な不安そうな顔をしていました。
言葉にまだ出さない、わたしも聞かない、普段と同じように接する。
そうすると急にいつもの様に戻る。これの繰り返しだけれども...
これが普通というのか、ただ普段通りのコミュニケーションが短くなっていっている様に思う。
夫婦と他人のような、よそよそしさが交互にやってくる。
だいぶん前から、あなたの座る前のテーブルにはカレンダーを置いている。
何かあれば、忘れない様にそこにメモを貼る。
洗面所にもメモ。
『髭剃りは左下の引き出し』
『歯磨きチューブは右の1番上』
『歯ブラシは青色』
『蛇口レバーは左にするとお湯』
『使ったら水道を閉める』
など、日常の事を書いて貼ってあるけれど、今は書いても書いたことすら忘れる。
キッチンや冷蔵庫でも
普通の事が出来なくなっている。
冷蔵庫を開けて何かを出すと、どこにしまうのか忘れてしまう、ドアも閉めなくなる。
単純な事だけれど、そういう事が出来なくなっていく。
知人や同僚だった人のことも忘れてしまう。
名前を書いた写真を貼ったアルバムを置いておくが、見ることもほとんどしない。何も興味も示さなくなってきた…
わたしは、主人が出したもの使ったものを、だまって片付けていく。
会話も次第に無くなっていく、一日中鬱状態のような時もある。
それでもなんとか、わたしの事は妻だと思ってくれている。でも、いつわたしの事も頭の中から消えてしまうのだろうか?
そんな心配な言葉を突然聞かされる、とうとうわたしの事がわからなくなったのかも知れない。
「おはよう」
「誰ですか?あなたは?」
「あなたの妻ですよ」
「妻?…あなたが?」
「そうです.....」
少し混乱しているのがわかる。
「思い出さなくていいですよ」と言う
すると、少し安心する。
しばらくすると、全くわからなくなってきた。
日常生活にも支障をきたすようになってきた。
お漏らしをしたり、服も一人で着れない、歩くことも少し不自由になってきた。
病院に行くと、だいぶん進行している。このまま進行すれば、あと3年から5年の余命かもしれないと...
1年前最初に診断された時にも、これからの事は聞かされていたので覚悟はしていたが、少し物忘れがある程度の、ごく普通だったときからの主人の変わり様でそれが現実にやってくるんだとわたしの中に迫ってきていた。
最初は電気の消し忘れ、水道を止めない
買い物に行くと、勝手に持っていってしまう、食事もひたすらご飯だけを食べ続ける
それでも自分でなんとかしていたが、今はほぼ自分では何もできなくなってしまった。
40代で発症すると、進行が早いと先生からは聞いていたが、あっという間だった。
介護もあり環境を変えてみるのも良かったので、苦渋の決断でホスピタルハウスに入居してもらった。
40歳を超えているので介護保険を使い、若年性認知症でも入居できるところに運良く入る事ができた。
少し遠いところだったが、あなたの好きな海が見える、丘に建つホスピタルハウス。
生活があるので私も復職した。総合病院の病棟看護師をしていたが、土日は休めるように、無理を言って外来に変えてもらった。
そのため、週末だけしか主人に会いにいけなかった。
毎週土曜日には、あなたに会いに行き、本を読んであげたりお話をしたりした。
ベンチに並んで座り本を読むと、急にだまってうなずいたり 、イライラして落ち着きのない事も多かった。
感情的になり、膝をかきむしったりもする。
あなたは、そういう機嫌がよくない時もあるけれど、「ありがとう」と喜ばれ時もある。
「ボランティアですか?」と聞かれことも。
「ここの人じゃないよね ?」
また違う日に行くと、「初めまして、こんにちは」とも言われる。
私も「こんにちは」と挨拶するが名前は言わない。
それと、「覚えていますか?」とは決して聞かない。
あなたは記憶を辿らせると混乱するから..
あなたのペースに合わして話をする。
人の事のように、ふたりの思い出話しをすると、あなたは入り込んで静かに聞いている。
大好きな本よりも、楽しそうに聞いてくれる、わたしには思い出話、あなたはドラマのようなお話なのでしょうか…
楽しい事は笑い、悲しい事は涙を流していた。情緒は不安定だけれど感情を出してくれるのは、なぜか安心する。
ただ、悲しいけどあなたの記憶には私はもういない ...
少しでも昔を想い…話を巡らせる…
入居半年、次第に歩行も困難になり、食事も取らなくなり普通の生活がままならなくなっていた。
それでも、わたしが会いにいくと。
「今日はなんの用ですか?」「佐々木さん」と
ベッドの横に座るわたしに問いかける。
名前が変わるから、それに合わせるわたし。
また、「麻理」と下の名前で呼んで欲しいけれど…
もう、無理なお願いね、「圭司」さん ...
今のあなたには、わたしは赤の他人。
もう、あなたの中にわたしはいないのよね。
昔の様にあなたが眠る横に添い寝をすると、優しく頭をなでてくれることもある。
わずかな記憶だと思った瞬間。
「なぜ横にいるの?」と。
「ごめんなさい、気持良さそうに寝ていたので 、わたしもつい横で寝てしまいました」と言い訳する。
「横で何してるの!」「厭らしい!」「帰りなさい!」と強く言われた。
いつもの事だけれど…
どうしようもないことだけど …
辛くて悲しい言葉 …
「そうですね…ごめんなさい 」
車椅子で外に出て今日もベンチに腰掛け海に沈む夕陽をみている、あなた.....
何を想っているのでしょうか、まだ、夢を想ってくれてるのでしょうか....
あなたは黙ってベンチのとなりを空けてくれる、そっと座り並んでわたしも海を眺めている。
幸せのひとときだった。
あなたは夢を忘れてしまったの?
あなたは言ったことを忘れてしまったのでしょうね。
まだ、病気が進行する前に約束した事を..
いつの日から、すべてを忘れていくのらかしら
忘れないで、忘れないで 、そばにいたいから。
忘れても、忘れても、再びめぐり逢おうね。
あなたのそばにいたこと、ずっと私のことを忘れないで欲しい。
叶わない現実だけれども...
消える記憶はあっても
消せる想いはないから
もう、わたしの事は思い出さなくてもいいから
今もあなたへの恋だから、愛しています。
「私には妻がいるからね 」
と言われる事がなぜか嬉しい 。
私の記憶はなくても
妻の記憶はあることが…
「わたしも主人がいますよ」と
「なら好きになってはいけないね」
心の中では
「もう一度好きになってくれませんか」と呟く。
あなたが言っていた、「また、めぐり逢おうね」を想う。
消える記憶はあっても
消せる想いはないから
胸が躍るこの高鳴りをなくす事は出来ない。
忘れてもいいから、もう一度愛して欲しいの。
全てが真っ白になっても、また愛して欲しいの。
何もかも忘れても、また一緒に生きたい。
2月の寒い日、あなたは旅立ってしまった。その日は朝まで降り続いた雪が積もって、海までの道は真っ白、あなたの心とおなじ真っ白な雪が降り積もっていました。
海が見たかったのか朝ひとりであなたは車椅子に乗って、ベンチの横で眠る様に死んでいたと。
もしかしたら自らなのかも知れない..
記憶と闘っていたから、もう終わりにしたのかも、ただもう、それはわからない。
ベンチの雪はすべて除けてくれていた、わたしの来るのを待ってくれていたのでしょうか...
いろんな事を考えながら、そしてあなたを思い。
歩いて海までいきました。振り返ると、雪の上にはわたしの足跡があります。
いつもあなたと同じ道だったのに今はひとりだけになりました。
あなたをひとりぼっちにさせてごめんなさい。
あなたはずっと闘っていたのでしょうね...
どんなに、あなたの辛い日々はあの日のわたしと同じだったかも知れませんね。
どんなにもどんなにも辛くて悲しい日々。
ひとりぼっちのわたし。
あなたと出会ったのは、わたしが女子中学校に通う電車のなか、ずっと同じ時間の同じ電車の同じ車両。
満員電車に後の駅から乗ってくるあなたを反対のドアのすみから、いつもわたしはこっそり見ていました。
かっこいい、お兄さん、少しドキドキしながら憧れていました。あとから聞いたのはあなたもドキドキしていたと..
「だから、いつも同じ車両に乗るようにしていたんだ」と言ってましたよね
3歳離れた2人でした。
あなたは高校を卒業してたぶん大学に行ったと、わたしはそのまま高等部に進み。
あなたは乗る電車も時間も変わり、姿を見ななくなりました。
時間は長く、1年の片想いでした。
わたしは、同じ学校の高等部なので同じ時間の同じ電車。
勝手に失恋したわたしはそれでもいつもの車両に乗って通学していました。
その日も外を眺めながら花びら舞う桜をみながら、ついついその駅に停まると反対のドアが開くのを待ち、あなたが入ってくるのではと期待しいたのです...
そんな叶わない寂しい気持ちでひとりで乗っているのを知っていましたか。
そんな時あなたが乗って来たのです、あっ!わたしの胸は高鳴りました。
けれど、あなたは背の高い女性と一緒だったのです、にこやにお話しをしている姿をみてなんとなく、察してしまいました。
勝手にひとりで恋をして、勝手に失恋した。
わたしはひとつの季節を超えてからまた、いつもの車両に乗って通学していました。
夏も過ぎて短い秋がいき、季節は冬、わたしは季節が巡ってもその駅に停車すると、反対側のドアをみていました。何を期待するでもなく、何を出会うでもなく、またあなたがいつか乗ってくるかも知れないと....
年が明けて、外は雪が降り真っ白に積もっていました。いつものように外を眺めていると、『積雪のため次の駅で一時停車すると』アナウンス。
ドアが開き、いつものようにドアを見ていると、まさかのあなたが入って来ました。
わたしは、見つめる事が出来ず下を向いてしまいました。
すると、混雑する車内を「すみません」といいながらわたし側のドアまでやってくる人の気配で見るとそれはあなたでした、はじめて聞く声。そうしたらあなたはわたしのすぐ横に立っていました。
こんなに近くに寄られるのは初めてで、まともに顔を見れなくまた下を見ていたら。
「すごいね、たくさん降ったね」
「雪で真っ白だね」
えっ?独り言?それともわたしに言ってるの?
あの時に一緒にいた女性はいないよね?
「ほら」といいながら、わたしの目の前の曇ってるドアを手袋で拭きながら「見て、真っ白」
やっぱりわたしだよね?と外を見て
へんな間があって「ほんとですね」って
「雪は何もかも消してくれて、真っ白にしてくれるから綺麗だよね」
それが、あなたとわたしの2人の始まりでした。
その時、勝手にひとりぼっちになったと思った辛かった日、悲しい季節は一瞬で忘れてしまいました。
今度はあなたをひとりぼっちにさせてしまいました、ごめんなさい。
どんなにあなたの辛い日々はあの日のわたしと同じだったかも知れませんね。
ごめんなさい...
ひとりぼっちのあなたとわたし。
ごめんなさい...
2度目の人生がやり直せるのなら.....
もう一度、2人で歩いていきたい。
もう一度、あなたに会いたい....
ほんとは忘れてほしくなかったの
毎日毎日こんなに辛いことはなかったの
あなたの苦しみを知っていたけれど...
いつもでもあなたの心にわたしはいたのに。
それでも忘れてしまった。
わたしからあなたを奪った辛い日々。
消える記憶はあっても
消せる想いはないから
「あなたに会いたい」
ねぇ、あなた....もう一度
あなたの声が聞こえます
「真っ白にしてくれる雪は綺麗だよね」と
あなたは真っ白になってしまいました....
この雪のように
「あなたに会いたい」
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