高嶺の花

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 祭壇の真ん中、桜は笑う。  真っ白な菊たちに囲まれて、あの頃と変わらない美しい微笑みで。  線香からゆらゆら揺蕩う灰の煙。その匂いを深く鼻腔に感じながら、三人は桜に手を合わせる。瞼を閉じ、久しぶりの再会が遺影だなんて……と、心を痛めた。  焼香を終え、パイプ椅子に戻った直哉、優斗、佑(たすく)は、周りから沸き上がるすすり泣きを感じながら、また彼女の笑みに見惚れていた。     そこには確かに花が咲いている。華やかで、たおやかで、美しい花。三人も、いや、誰もが魅了されたであろう妖艶な花が。  三人は高校の同級生で、桜は三年生の時のクラスメイトであった。桜は噂のとおり、一般男子の三人には、決して手が届くことのない高嶺の花であったようだ。  生まれた時から色素が薄かったのか、日本人とは思えない薄い琥珀色の瞳。それは煮詰めたキャラメルを纏ったアーモンドのような瞳で。それだけじゃなく、血管が透けるようなきめ細やかな白肌は、磨りガラスみたいに儚い美しさを持っていて。長く艶やかな髪は、亜麻を紡いだ糸のような黄褐色、いわゆる亜麻色で彩られていたのだった。  直哉も、優斗も、佑も。煙に巻かれた灰色の空気の中、不謹慎だと思いながらも、ある一つの記憶を頭に巡らせていたのだった。  全身の血液が逆流するような、熱く燃えたぎる記憶。今現在も、きっと身体が覚えているのだ。それは『はじめて』だったからなのか。だから、こんなにも鮮明に、全身の神経細胞が記憶をしているのか。肌が、指が、頭が、心が。  いや、それは、相手が桜だったからだ。  男にとって、無敵な女だったから。  高嶺の花だと思っていた女との、はじめて交わった記憶だからだ。  桜との甘い淡い記憶に取り憑かれたまま、三人は、学校帰りによく通った桜並木に来ていた。あの頃と変わらぬ美しい河津桜に懐かしさ感じながら、直哉、優斗、佑の並び順は今でも変わらない。やっぱり、この定位置がしっくり来るらしい。 「あれからもう、10年近く経つのか……懐かしいなぁ」 「だな。なぁ、せっかく久しぶりの再会なんだから、河原に座って話そうぜ」 「うん、そうだな。あの頃みたいに、河原で恋バナでもするか?」 「ははは、恋バナ?」 「よく、してたじゃないか」 「まぁ、桜の話ばっかだったな……」  三人は河原に腰掛け、薄紅色の花を仰ぐように眺める。さっきの灰色の景色とは打って変わって、眼前に広がるのは、彩りを灯した薄青色と淡紅色の二色の風景。  その風景は、あの頃と変わらない。  違うのは、ここにいる三人が歳をとった事と、桜という魔物が死んだという事。今も尚、三人の心に巣を張って生きている女が、もうこの世にはいない、という事実だ。 「結局さ、俺らの初体験っていつなんだ?」  優斗が突如こぼした言葉に、直哉と佑は顔を見合わせあと、ぶはははっ! と笑いだす。 「そんな話、ここでしたなぁ」 「あの時も、優斗が突然聞いてきたんだ。『お前らの初体験っていつ?』だなんて」 「確かそうだったよな。でも、結局みんな童貞だったんだよなぁ。だから、今聞いたんだよ。あれから、だいぶ経つんだ。みんな、経験してるよな?」  優斗が楽しそうに聞くと、直哉と佑は「まぁ、もうすぐ三十路だからな……」とホロッとこぼした。  春の静寂の中、三人はあの頃の青い青春の風を感じながら、ドキドキと胸を躍らせていた。  高嶺の花に憧れていた三人は、あの日、こんな話をする時は、何を仕掛けることもなく、経験する事もないままだった。しかし、今はある程度の大人になり、それなりに経験はしている。だから、幸い初体験の話はできるのだ。『はじめて』を話し合えるのが、なぜか、三人の胸を、無性にドキドキと高鳴らせていたのだった。 「実はさ……」  と一番に口火を切ったのは、優斗だった。 「あの話をしてから、一ヶ月経たないかそこらで、初体験しちゃったんだよね」 「マジか?」 「誰とだよ?」 「それが」  と少し勿体ぶらせた優斗の返答に、二人共、心臓が飛び出るぐらいびっくりする。 「さっきの桜なんだよ」 「えー!」 「えー!」  と二人は驚いたが、すぐに待ちきれない様子で喋りだす。 「実は、俺の初体験も桜なんだ」    と直哉。 「お前らもか。俺も桜が初体験の相手なんだよ」  と佑が答える。 「はぁ? マジか?!」  目をまん丸くさせた優斗は、ふうっとため息を吐くと、自らの初体験について語り出したのだった。 「あれは、本当に突然でびっくりしたんだ。部活の片付けで、残されていたバスケットボールを倉庫に返しに行った時のこと。倉庫の奥から誰かのすすり泣く声が聞こえたんだ。それが、桜だったんだよ。『どうしたの?』って近づいたら、急に抱きしめられて。近くにあったマットの上に押し倒されてさ……それで。お、お前らも知ってるだろうけど、桜ってやけに色気があるんだよな。しかも、制服の上からでも分かるぐらいナイスバディで」  うん、うん、と頷く二人。  優斗はまた、話を続ける。 「桜ははじめてじゃなかったんだろうな、慣れている感じがした。夏場だったし、倉庫の中が蒸し風呂みたいだったけど、ひんやりした桜の肌がやけに気持ち良くてさ。とりあえず、俺ははじめてだったから、無我夢中という感じで……『わっせ、わっせ』と陸上部の掛け声を近くに感じながら、誰かにバレないか? っていうスリル感があったな。結局、誰にもバレないまま終わったんだけど。その一回きりで桜とは付き合ったわけではないし、彼女はそれから何事もなかったようにしてたからな。ただの遊びというか、欲望を満たすだけというか、寂しさを紛らす感じだったのかもな。まぁ、俺の初体験はそんな感じだ」 「なんか、倉庫の中ってドキドキするな」 「お前、次の日とか普通だったよな。桜とそんな事になってるなんて……全然、分かんなかった」 「まぁ、そうだな。今でも夢だったんじゃないかって、時々思うからな。何だろう……鮮明に覚えているんだけど、壊れもののような儚い経験というか」 「あ、なんか、それ分かる」  と次は直哉が、桜との初体験について語りだす。 「俺はさ、大学に入ってコンパに行きまくってたんだけど。何回目かのコンパで、めちゃくちゃ綺麗な子が来るって聞いてたら、それが桜でびっくりしたんだ。高校の時より色気も増して大人びていたし、やっぱり、他の女の子と比べものにならないぐらい綺麗だった。それで同級生だからって、意気投合しちゃって。二次会のカラオケの途中で『抜け出さない?』って誘われて、二人でラブホテルに行ったんだ」 「コンパで桜に?」 「そこからのラブホか。よくある展開だな」  うん、うん、と頷きながら、直哉は話し続ける。 「あの桜だから、やっぱり慣れてる感じはあった。ホテルの場所も知ってる感じだったし。部屋に入って、早速シャワーを浴びて出てきたバスローブ姿の桜、めちゃくちゃセクシーだった。谷間とかヤバくて、俺ははじめてだったんだけど、興奮して桜に襲いかかっちまった。俺がもたもたしていると、彼女がリードしてくれて。夢中すぎてあんまり覚えてないんだけど、花のような甘いシャンプーの匂いだけは覚えてるな。あと、羽二重餅みたいに柔らかい肌の感触も。行為の後、すぐに俺は寝ちゃって。目が覚めたら、お金だけが置いてあって、桜の姿はなかった。だから、それっきりだな。まぁ、初体験ってそんな感じなのかもな。抱いている時の桜って、なんか壊れてしまいそうなぐらい脆い感じがしたしな……」 「あー、分かる」    と優斗は首を振って頷く。  話し終えた直哉は「次はお前の番だぞ」と佑に言うと、頭上で揺れおどる花びらを見上げた佑は、一瞬考えた後、話し始めた。 「俺の初体験は、お前らよりもう少し後だったな。社会人になってから、すぐだったと思う。取り引き先の付き合いで行ったクラブで働いていたホステスが、あの桜だったんだよ。着物を着ていて品があったんだけど、やっぱり、顔だちは飛び抜けて美人だったから、すぐに彼女だって分かった。向こうも俺を覚えていて、話が盛り上がって、その時にコソッと連絡先を交換したんだ。それからしばらく、桜とは連絡を取り合っていた」 「桜がホステス?」 「スカウトされて、モデルか女優になる為に東京に行くとか、そんな噂もあったよな」 「確かにあった。でも、桜の家って母子家庭だったよな。金に困っていたのかもしれないな」  そう、そう、と佑は、話を続ける。 「そうなんだよ。桜はお金に困っていたから、女優の夢を諦めて、クラブで働いていたらしい。お母さんが病弱だからって、そう言っていた気がする。相変わらず人懐っこい性格だし、見た目も綺麗だから、クラブでNo. 1のホステスだったみたいだ。それで、桜に誘われて、彼女の一人暮らしの部屋に行ったんだ。いい所に住んでるんだろうと思っていたけど、それが築十数年は経ってるオンボロアパートでさ。そこで、『寂しいから、抱いてほしい』って言われて、はじめてだったけど、何とか知識だけで彼女を抱いた。ガランとした殺風景な部屋で、なぜか、切ない余韻だけが残った気がした。驚くほど冷えた体は震えていて、ガラスのように壊れてしまいそうだった。だから、儚い、脆いという感じは分かる。きっと彼女は、寂しさを紛らわす為に、男たちを誘惑していたんだろうな。そうなってしまった理由は、死んでしまった今となっては、分からないけれど……」  佑はそこまで話すと、水色の空をヒラヒラと横断する薄桃色のカケラを眺める。それに釣られて二人も、春色満開の空を仰いだ。  『桜に会いたい』  三人は同じ人を今、想っていた。  それぞれに『はじめて』をくれた彼女。その人に、会いたいと——。  彼女の肉体が亡くなっても、その大切な記憶は今も鮮明に、三人の脳神経に、体内神経沁みついて離れないでいるのだ。  それだけ桜という女は、魅力的で、魅惑的で、無敵で。男たちを翻弄したに相違ないだろう。    桜の幻想に取り憑かれたまま、三人はぼんやりと、まだ桜を眺めていた。そんな時、直哉が「そう言えば」と話を切りだす。  優斗と佑は、ジッと直哉の顔を見つめた。 「さっき、お葬式の時、桜の幼なじみに会ったんだ。そいつが、こんな事を言ってた。高校の時、桜が援助交際をしているんじゃないか? って言う噂があったけど、あれは嘘なんだって。実は、彼女、だいぶ歳上の人と付き合っていたみたいで、それを誰かに見られて勘違いされていたらしい」 「援助交際してるって噂あったな」 「うん。だいぶ歳上ってどれぐらい?」 「20ぐらい離れていたらしい。それで高校三年生の頃に、その男が交通事故で亡くなって、それから桜はおかしくなったみたいなんだ。彼を忘れる為に、男と身体を重ね続けていたらしい。そんな事を続けても、彼を失った寂しさはずっと消えなかったのだと、桜は言っていたんだって。桜は軽い女だと、世の男たちに思われていたのかもしれない。実際、俺もお前たちの話を聞いて思った。でも、そんな事をしてまでも思い続けられる人がいるのが、羨ましいというか、素晴らしいなって、俺は思った。二人は純愛だったんだよ。だから、きっと桜は……」  果てしなく続く天空を、三人で仰ぎ見る。  高い嶺で咲く花が、浮かび上がる。 「桜はやっと彼に会えたんだな」 「きっと、幸せだよな」 「あぁ、絶対に幸せだな」  河津桜の花が咲きほこる空の中、桜は幸せそうに笑った——。  あの頃と変わらぬ美しい微笑みで。  end
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