1. 学生時代

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1. 学生時代

 京都、哲学の道。  およそ二キロの小道の中ほど。脇を流れる水路にかかる小さな橋の先に、一軒の小さな喫茶店がある。  達哉は、その窓辺でコーヒーを飲みながら、35年前の秋を思い出していた。  息子も独立。増えた自由な時間で、京都の思い出の地を、一人で訪れていたのだ。          *  時代は、まだ昭和だった。  高校の修学旅行で京都を訪れていた達哉は、自由行動のその日の朝、南禅寺近くのホテルを出ると、班の仲間と五人で哲学の道を歩いていた。  途中、向こうからやって来た、三人組の女子高生のうちの一人に、目を奪われた。  メガネをかけ、ストレートの長い黒髪。一見おとなしそうな風貌だが、その時はお喋りに夢中だった。  水路の両岸を彩る紅葉に、ブレザー姿の彼女が映え、ソプラノの明るい笑い声も、ストライクゾーンど真ん中。ひと目惚れ、ひと耳惚れ両方だった。  すれ違いながら目で追う。見送った後、前を向き直ったが、すぐにまた振り返った。と、遠のいていく彼女の手元の鞄から、何か四角いものが落ちるのが見えた。 「あっ」  小さな声が出て後戻りしようとする。 「おい、達哉」  仲間の一人が、振り返りながら呼び止める。 「修学旅行中は、他校の生徒に声かけちゃだめなんだぞ」  別の仲間も言う。仕方なく歩き始めたが、どうしても気になって、 「悪い。ちょっと待ってて」 「おい、達哉」 「落とし物を拾って先生に届けるだけだよ。声はかけないから」  そう言って駆け寄り、拾い上げると、それは一冊の本だった。○○書店と印字された紙のカバー越しに、うっすらと表紙の文字が見て取れる。 『人間失格』 (へぇ。イメージどおり……って失礼かな)  読んだこともないのに、太宰治の印象と彼女を結びつけ、勝手に想像を膨らませ、胸がときめく。 「早くしろよ。間に合わなくなるぞ」  仲間が呼ぶ。今日達哉たちは、哲学の道を抜けた後、比叡山の延暦寺まで行き、折り返して銀閣寺を見学する予定なのだ。 (ホテルに帰ったら、先生に預けよう)  達哉は、本を一旦自分の鞄にしまった。
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