1. 学生時代

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 椎野温子……その文字に、初め達哉は目を疑った。  しかし、[京都市左京区××……]と書かれたその住所に、間違いなかった。 「お兄ちゃん、チャンス到来!」  春奈に見せると、頑張れというふうにガッツポーズを作って見せてくれた。  達哉も東京の国立大学を受験し、合格した。  温子の年賀状の後押しが効いたのか、合格判定は最後まで振るわなかったが、何とかパスすることができたのだ。  しかし、温子からの連絡は、年賀状を最後に、また来なくなった。  そのままに達哉は、春から井の頭公園近くのアパートで、一人暮らしを始めた。  京都の住所に、新しい連絡先を書いて送った。が、音沙汰のないままに、新たに時は刻まれていった。  修学旅行での出来事、そして年賀状……達哉にとっては、それらの記憶が長い年月の中に埋もれていくにつれ、夢の一場面のようになっていった。  夏も近づいた、六月のある蒸し暑い夜。  ワンルームの部屋の角に置かれた電話が、突然鳴った。  勉強中の机の本に突っ伏して寝入ってしまっていた達哉は、手を伸ばして受話器を取ると、 「もしもし……」  ひどく疲れた女性の声がした。誰か分からないまま黙っていると、すぐにまた 「もしもし……」  少しかすれた声は、息苦しささえも感じた。 (……もしかしたら)  達哉は、ある直感を持って、 「椎野さん……?」  わずかな沈黙。違ったかと思った瞬間、 「はい」  声の主は、やはり、待ちわびていた人だった。 「待っていたんです。やっと……」 「今、会えますか?」  達哉の声に、温子の声がかぶる。 「今から、ですか?」  時計を見ると、10時を差していた。  何か変だなと思いながら「いいですよ」と答えようとすると、先に温子が 「三鷹駅前の、△△コーポ、201……」  とだけ言って、切れてしまった。  三鷹なら近い。達哉は吉祥寺駅からひと駅電車に乗り、三鷹駅で降りた。  △△コーポは、探すまでもなくすぐに分かった。本当に、改札を出て目の前だった。  201号室のドアに、椎野温子のプレートが掛かっている。呼び鈴を鳴らす。が、応答がない。  刑事ドラマで見るように、ドアノブを捻ると、ガチャッと音がして、簡単に開いた。  嫌な予感が走る。恐る恐るドアを開けると、中から明かりが漏れてきた。  不安がよぎる。頭を中に入れる。 (あっ!)  そこに、うつ伏せに倒れている、髪の長い女性の姿があった。  一気にドアを開けて入る。 「大丈夫ですか?」  しゃがんで彼女の顔を横に向けると、やはりその人は、椎野温子だった。  メガネはしたままだ。意識はない。  達哉はすぐに、玄関脇にある電話で救急車を呼んだ。  そのまま達哉は、病院で朝を迎えた。  意識が戻らないままに、温子の両親がかけつけた。 「助けていただいて、ありがとうございます」 「元気になったら、改めてお礼に伺います」  病室を出た所で口々に言う両親に、黙って頭を下げ、温子とは何も話せないまま、病院を後にした。  しかし、達哉の元に、両親も、温子本人も、現れることはなかった。
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