2. そして、今

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2. そして、今

 修学旅行以来、久しぶりに訪れたこの喫茶店。  35年前は、古びた小さな茶屋だった。  外観も中も、すっかり新しくなっている。が、窓からの眺めは変わっていない。 (あれから、どうしているんだろう……?)  哲学の道を行き交う人々を眺めながら、温子のことを思い出していると、店の扉の鈴の音が、来客を告げた。  一人の中年の女性客が、達哉の前の席に案内され、こちらに背を向ける形で座る。  注文を済ませると、コートを脱いで席を立ち、お手洗いへ歩いて行った。 (京都は、女性の一人旅がよく似合う……)  そんなことを思いながら、何気なく彼女の席に視線を向けると、テーブルの上に置かれた一冊の本が目に入った。 (……!)  タイトルを目にした達哉の心に、まばたきを忘れるほどの衝撃が走った。 『人間失格』  古びた文庫本の表紙には、そう書かれていた。  女性が戻って来た。  メガネに、真っすぐな黒髪。白玉のネックレスが品を漂わせている。  チラッと達哉を見て、座ろうとしたが、その動きを止め、再び視線を達哉に向ける。  達哉が目礼をすると、彼女も目礼を返して座ろうとする。その視線が、かすかに泳いだように見えた。 「あの……」  背中に声をかける。と、彼女は振り返り、「何でしょう?」というふうに小首を傾げる。 「太宰治、お好きなんですか?」  と言って本に視線を向けると、彼女も本を見て、 「あ、これですか?」  本を手に取り、 「太宰と言うより、この作品が好きで」 「実は私も、人間失格が好きでしてね。と言いますか、太宰の作品はこれしか読んだことないのですが」  達哉が笑うと、 「私もですよ」  そう言って彼女も笑った。 「あの、もしご迷惑じゃなければ、そちらの席にお邪魔してもよろしいでしょうか?」  思い切って聞くと、 「構いませんよ」  笑みを向けてくれた。  さっそく達哉は、諸々の物とともに彼女の席に移動するや、 「高校の修学旅行で……」  と、三十五年前の哲学の道の思い出を話し始めた。  黙って聞いていた彼女だったが、次第に何かを思うような目になっていく。そして、 「そこのベンチに座っていたら、三人の女子高生がこの店から出てきて……」 「私です!」  達哉が言うより先に、彼女は言った。
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