2. そして、今

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「やはり、そうでしたか。あなたが……」 「はい。椎野温子です」  彼女の目が、みるみる潤んでくる。達哉も思わず目頭が熱くなる。 「あれから、どうしていたんですか? なぜ、連絡くれなかったんですか?」 「私は……一度死んだんです、あの時……」  温子はそんな言い方をしてから、当時を振り返った。  彼女には、中学時代からの憧れの彼がいた。  二学年上の、吹奏学部の先輩。  人見知りが激しくて、コミュニケーションが苦手な彼女のことを、彼は何かと気にかけ、庇ってもくれた。  彼のことが大好きになり、彼とまた、同じオケで楽器をやりたくて、追いかけるように同じ高校に入学した。  そして、彼の卒業式の日。東京の大学に進学が決まっていた彼が、 「君も○○大学へ来いよ。そしたら、また同じオケでやろう。待ってる」  そう言ってくれた。それだけじゃなく、こんなことまで……。 「今までは部内交際禁止だったけど、大学では、君とちゃんと付き合いたい」  春の明るい日差しの下……。  別れの哀しさと、将来への希望に舞い上がるような喜びとが交差する中、ゆっくりと、しかし強く頷く温子に、 「これ、君にプレゼントする。一度読んでみるといいよ。人生観が変わるよ。二十年も生きてないのに生意気だけど」  爽やかに白い歯を見せながら手渡してくれたのが、『人間失格』だった。  表紙がボロボロになるほど、何度も読んだ。  肌身離さず持ち歩いた。  なのにある日、落としてしまった。哲学の道で……。 「素敵なお話ですね」  夢を見るように話す温子に、達哉が言うと、 「青春の思い出は、美化されますからね」 「そうかも知れません。けど、本当に、いいお話が聞けて、なんか幸せな気分ですよ」  達哉は今、心からそう思えていた。と、 「そうだ。これからお時間ありませんか? 一緒に行きたい所があるのですが」  達哉は、温めていたある計画を、やっと今日こそ実行できると思い立ち、急ではあるが、思い切って誘ってみた。すると、温子はすぐに、 「大丈夫ですよ。今日は一日フリーですから」  そう答え、ニコリと笑ってくれた。  さっそく店を後にした二人は、哲学の道から、銀閣寺前に出て乗り物を乗り継ぎ、最後、ロープウェイで比叡山山頂へ。あの時と同じルートだ。 「それで、先輩とは?」  晩秋の琵琶湖を見降ろしながら、温子に訊いた。  結婚し、子供ができ、その子供も無事就職して……  そんなありふれた、けれど幸せな話が聞けるのかと思っていた。  しかし、隣の温子は、ぎゅっと口を結び、時雨雲の湧き立つ琵琶湖に目を向けたまま、小さく首を振った。
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