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「あっ、すみません、余計な事でしたね」
バツが悪くなった達哉は、頭を掻きながら、あの夜のことを思い出していた。
不安の中、三鷹の彼女のアパートに駆け付けた夜。
しかし、何も話せないまま、彼女は病院に運ばれ、それっきりだったのだ。
「悪い夢を見ているようだった」
琵琶湖を見ながら、ポツリと温子が言った。
「悪い夢……ですか?」
黙って頷く。
一陣の冷たい風になびいた長い髪が彼女の顔にかかり、哀愁を誘う。
温子は遠くを見たまま、哀しい目をして、
「太宰のようでした」
またポツリと言った。
「えっ……?」
彼女の横顔を見つめ、次の言葉を待つ。ゆっくりと口を開く温子。
「モテる人だったから。中学の頃から、ずっと。でも、私は信じて上京した。大学に入ったら付き合えるって」
「……」
迷うことなく、大学のオケに入った。
彼はそこで、指揮者を務めるまでになっていた。高校時代から実力は凄かったが、大学でさらに成長を遂げていた。
空いた時間に、二人きりでお茶や食事もするようになった。
順調だと思っていた。が、いくら待っても、ちゃんと付き合おうとは言ってくれなかった。
一方で、何となく彼が変わってしまっているのを感じた。それを言うと、
「東京に出て二年も経てば、誰だって変わるさ。君だってそうなるよ」
彼はそう言って、すれた笑いを浮かべたという。
「別にそれが嫌ではなかったけど。大人になったようで、素敵だったから。でも、何となく距離を感じるようになって……それに……」
「……?」
「他にも女の人がいるんだなぁって」
何度かデートをするうちに、直感したという。それが、最悪の形で現れてしまった。
ある日、オケの練習場所に行くと、大騒ぎになっていた。
「松沢さんが亡くなったって!」
「玉川上水で、無理心中したらしい」
「相手は人妻って聞いたよ」
「最悪……」
あちこちから様々な声が聞こえた。
『有名大学オケの実力派大学生指揮者と、人妻の心中!』
センセーショナルな事件に、テレビのワイドショーも飛び付いた。
いやでも温子の耳目に入る。紛れもなく、先輩だった。
「つらい思い出ですね」
温子の横顔に、そっと声をかける。
「まぁ、その時はね、ショックで、つらくて。自分って何だったんだろうって」
潤んだ瞳を達哉に向け、
「あれだけ好きだったのに、結局、負けてしまったんだって」
「そんなことはないですよ」
「わかってます。と言うか、今ならわかります。けど、あの時は、彼が選んだのは人妻の方。私は捨てられたんだって」
と、彼女は琵琶湖に視線を向け、
「日が経つにつれて、心がそんな思いにどんどん支配されていって。それである日、玉川上水に行ったんです……」
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