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もう一度深呼吸をして、寿はチャイムを鳴らした。
「今開けるよー」
ドアの向こうから粋の叫び声が聞こえた。キッチンの辺りから叫んでいるのだろうか。声は小さくてくぐもって聞こえた。
耳を澄ませると、松葉杖の音だろう、カツン、カツンと固い音が聞こえてきた。それは徐々に大きくなって、ドアの前で止まった。鍵を開ける音が響いて、ゆっくりとドアが開いた。
「ごめんね。松葉杖だと速く歩けなくて」
目玉が奥に引っ込むぐらい、寿は目を見開いた。夢かと思い、何度か瞬きをした。でも、目の前にある光景は変化しない。
夢ではなくて、現実だ。
寿の驚きに気付いているのか、驚かれると予想していたのか、粋は恥ずかしそうに頭を掻いた。ジョリジョリと音がしそうだ。
ふわふわした癖毛は綺麗に剃られ、丸坊主になった粋がそこにいた。
「ここの傷の処置の時に一部だけ髪を剃ったんだ。みっともないから、坊主にしたんだけど、似合わないかな」
ウィレムのウィンクの意味が分かった。
「……似合う。格好いいよ」
粋の顔が綻んだ。
「良かった。上がって、荷物はそれ? リュックだけ?」
「あと、これはお土産。ピーターたちにもあるの。アンベルがディナーに招待してくれるって言うから、その時に持って行く。あ、いいよ。持てるから。鍵も閉めれるから」
寿は鍵を閉めると、粋の後をついて行った。
右の松葉杖と左足で器用に歩いて行く。まだギブスでしっかり固定されていた。
珈琲を淹れようとする粋をソファに座らせて、寿は手を洗いお湯を沸かした。
粋の話では、ギブスは来週外れるらしい。
おみやげに買ってきたマカロンを皿に並べて出すと、フランボワーズのマカロンを頬張り美味しそうに粋は笑った。
いつも通りの粋だ。
口の端に付いたローズピンクの欠片を細い指先で抓み、寿は口に放り込んだ。顔を赤らめる粋にキスをしたかった。
二人の視線が自然と合った。粋が少し屈めば触れ合う距離だ。
キスをしたかった。
粋は慌てて目を逸らして、マグカップを持ち上げた。
キスはできなかった。されなかった。
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