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1
玄関の引戸を開けると、タヌキがいた。
夏の終わりの夜。虫たちが鳴いて、ぬるい風にひやりとしたものが混じるそんな夜だ。
後ろ足で立っているタヌキは、ペコリと頭をさげた。
タヌキ? こんな時間に? それよりなにより、まさかタヌキが訪ねてこようとは。
そういえば、集落に人が居なくなった代わりにタヌキやキツネが増えて、何やら人間たちとお付き合いをするようになったと噂では聞いていた。つい先日の回覧板に【タヌキやキツネとの接触は慎重に】と書かれたお知らせが挟み込んであった。
わたしは痛む膝をゆっくりと折ってタヌキと目を合わせた。
タヌキは首から下げた木札をわたしに見せた。
《たべものと、こうかんしてください》
たどたどしい字が書かれてある。
「交換? 何と?」
タヌキは背中に背負っていた唐草模様の風呂敷を、ひょいと前に回すと結び目をほどいた。
それはリンドウの花束だった。花弁は月の明かりにも深い青だとわかる。
「ふうん、花ねえ」
わたしがタヌキの木札を手に取って、ひっくり返すと別の文字が書かれてあった。
《わるいたぬき》
おや、と思う。
「おまえは、悪いタヌキなのか」
わたしが問いかけても、タヌキはつぶらな瞳で小首をかしげるだけだ。
まあ、タヌキが差し出すものが食べ物なら、ちょっと警戒するが物は花だ。害はないだろう。
「食べ物か……何かあったかな」
ひとまず腰を伸ばして台所へと行く。シンクの中の洗い桶には、夕飯に使った食器が水につけてある。あいにく夕食の後だ。冷蔵庫には調味料と漬物くらいしかない。
さて、困ったなあと食器棚の下をのぞくと、真空パックのご飯や赤飯の買い置きがあった。
冬場に腰をやって動けなくなった経験から、買いだめしたものだ。買い過ぎて、賞味期限がぎりぎりになっている。どうせ一人では食べきれないのだ。これならいいか。
「おーい、こっちに上がっておいで。思ったよりたくさんあるから」
花を包んできた風呂敷で運べるだろう。棚からご飯のパックを出して床に積んでいたら、背中をつつかれた。タヌキが来たんだろうと、振り返って思わず口がぽかんと開いた。
そこには風呂敷を持ったタヌキを先頭に、小さめのタヌキが五匹も並んでいたのだ。
「なんだ、おまえの子どもか? きょうだいか?」
わたしは並んだタヌキたちに次々、ご飯と赤飯を渡していった。
「一匹かと思えば、六匹もいるとは。悪いタヌキだ」
わたしは笑いをかみ殺した。タヌキたちはもらう物をもらうと、ぞろぞろと玄関へ向かっていった。
小さな足とはいえ、土足で上がられた床はあとから雑巾がけしなければいけない。
「ここも、悪いタヌキだな」
わたしも一緒に玄関まで行き、上がり框に腰を掛けた。よほど義理堅い性格と見えて、タヌキたちは一列にならび、わたしに頭を下げた。
わたしは体の奥が、ほくほくと温かくなるような心待ちがした。
「庭に、柿の木とぶどう棚があるだろう? 食べ頃になったら、取っていいからな」
とたんにタヌキたちが色めき立つのがわかった。両手でパックのご飯を持ったまま、小さく飛び跳ねたりくるくる回ったりしている。
「その代わり、よその畑を荒らしたらいけないよ」
風呂敷包みを胸に抱いたタヌキが、なんどもうなずいた。そのしぐさに笑った。
タヌキはまたおじぎをすると、みなで一列なって月明かりの下を帰っていった。
「たまには、面白いことがあるもんだ」
わたしは玄関に座ったまま、青い筆を集めたようなりんどうを見やった。
お盆に、子どもたちは誰も帰ってこなかった。日々働きづくめの子どもたちには貴重な休みだろうし、孫たちが大きくなると、運動や勉強に忙しいのだろう。それに来てくれたところで、妻が亡くなった後では、わたし一人でじゅうぶんなもてなしができるわけでもない。
一人での暮らしには慣れたが、それは半分あきらめのようなものだ。子どもたちには子どもたちの暮らしがあるのだ。
そしたらタヌキだ。まさか、子どもじゃなくタヌキが来るとは。
くりくりした黒い目玉や、ずんぐりした体、柔らかそうな毛を思い出しただけでも、ほおがゆるんだ。
束の間、家族がたくさん住んでいた昔を思い出した。毎日がにぎやかだった。
おはよう、おやすみ、ただいま、おかえり。いつも誰かが応えてくれた。
タヌキたちが、かつての家族たちの面影に重なった。いただいたリンドウは仏壇に飾ろう。
ああそうだ、リンゴ畑のリンゴも食べていいと伝えればよかった。
いっとき楽しい思いをさせて、またさびしい気持ちにさせる。また来てくれたらいい。
くすりとわらってから、わたしはまぶたをそっとぬぐった。
ほんとにわるいタヌキだ。
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