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牡丹雪が静かに降る夜。
風もなく、落下の法則と大粒の雪がはらむ空気抵抗とが生み出すスローモーションによって、静々と地上へ降りてくる雪の挙動を見上げていると、まるで雪が降っているのではなく、自分が虚空へ向かって昇っていくような感覚に陥ることはないだろうか。
似たようなものでは、映画館でエンドロールを観ている時、画面上の文字列が昇っていくのではなく、客席のあるあの部屋全体が地の底へ降りていくような錯覚。
それを話したところでそれ以上話題が広がるわけでもないのだが、あれが妙に面白くて、あの光景に遭遇すると、立ち止まって見続けてしまうのだ。
「先輩?」
退勤時に足を止め、一緒に職員通用口を出た後輩が振り返って呼びかける。
「ごめん」
「なんかありました?」
「いや」
自分の視線を追って空を見上げる後輩に、そのさして面白くもない話をしてみせると、後輩はへえ、とだけ言って虚空を見つめる。
自分が、昇っていく感覚。
「本当だ」
数秒黙り込んだ後、ポツリと言ってくすりと笑った。
自分より2歳若いだけの後輩は、どんな話も面白がって聞いてくれるので、つい話しすぎてしまう。
「先輩それって、最初に思ったのいつですか?」
「なんで?」
「いやだって、こういうのを楽しむのって、すごく小さい子どものイメージあるから」
言われてみれば、いつ思ったのだろう。
昔からよく空を見上げていた気はする。
「周りに建物とかが少ない方が、そう見えやすいっすよね」
「確かに」
そう思うと、最初にこの光景を目にしたのは、今はない実家の前かもしれない。
かつて住んでいた一軒家は前庭が広く、玄関から家を背に真上を見上げると、敷地を囲む塀もその向こうの家々の屋根も視界に入れず、空を仰ぐことができる。
「それに、夜なら雪を照らす灯りがないと。
でも対象物の月が見えちゃったら錯覚が起きないから、月以外の光源」
職員通用口の灯りを指さす。
実家の玄関も、無駄に高い位置に取り付けられたポーチライトがあった。
人の出入りのない深夜まで、用もないのに煌々と前庭を照らしていた。
「そんなじっと空を見るタイミングがあったんすね」
「あったよ。
良く1人で、玄関先に立たされた」
後輩は、口を閉ざした。
そうだ。
思い出した。
幼稚園に入るかどうかという頃だった気がする。
あの頃はよく癇癪を起こす子どもだったので、泣き止むまで家の外に出されたのだ。
わけの分からない興奮の涙が沸き続けて、家に入ることも許されず、しゃくりあげるしかできない。
泣いても誰も出てきてくれないと知っている。
雪の冷たさで興奮は引いていき、その間ずっと空を見つめ続けていた。
家には背を向けて、隣家にも目を向けない。
家や、人や、温かさを思い起こさせるものが視界に入ったら、また涙がぶり返すと分かっていた。
呼吸が落ち着いていくほど、空に引き込まれていった。
あの感覚だ。
怒りも、悲しみも手放して、暗闇へ昇っていく。
「先輩」
呼ばれて地上へ引き戻される。
「ラーメン食って帰りましょ」
「ん」
もう、この話をすることはないだろう。
あの家も、今はもうないのだ。
終
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