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車に乗って最初に連れて行かれたのは、僕が入学したばかりの学校だった。「引っ越しする」と聞いてから三十分後には、担任の先生とお父さんと僕が教室で向かい合わせに座っていた。
僕は「転校」することになるらしい。その手続きも、お友達とのお別れの挨拶も全部、お父さんは断っていた。
「今すぐに引っ越しますので」
先生は驚いていたけれど、僕はもう何も思わなかった。
僕の本当のお母さんは、振り向いたらいなくなっていた。従姉妹の家に行った時も今の家に来る時も、何も聞かされず生活は始まった。いつだって僕は僕の行き先を知らない。
お父さんとお母さんが別れることになった原因は分からない。あの時の僕の怪我を見たお父さんが心配してくれたのか、なんていう期待もよぎったけれどね。やっぱり違ったよ。
「見ろ、ハルキの怪我を! おまえがやったんだろう」
あの日の夜中、お父さんとお母さんは喧嘩をしていた。お互いに腹が立って何度も外に出たり入ったりを繰り返していたとき、お母さんの怒りは僕に向けられたんだ。
階段から僕を落とした後、お母さんは部屋に戻って行った。血を流しながらマンションの下まで降りた僕は、外に出ていたお父さんを見つけた。
僕の姿に驚いたお父さんは直ぐに僕を連れ、部屋へと向かった。
「おまえがやったんだろう!」
怒った声が台所に響く。
「あら、どうしたの? こんなに怪我をして」
「とぼけるな、おまえがやったからだろう」
「わたし知らなぁい。誰がやったのか見たの……ハ、ル、キ?」
僕は立っていた。向かいには椅子に座るお父さん、そしてその後ろから僕を見下ろすお母さんが睨んでいた。
「ハルキ、正直に言うんだ。こいつがやったんだろ?」
「私はそんなことしないわよ、あなたがやったんじゃないの。ね、ハルキ?」
「黙ってろ、絶対おまえだ、こんなことをする奴だ。な、ハルキ?」
「誰にやられたのかしら、ね、ハルキ?」
どちらもが、僕の答えを待っている。まるで勝ちを競うようにお互いを罵り合っている。
「……じぶん、で……落ちた。階段から」
その答えに、お父さんの後ろに立つお母さんが恐ろしい顔で笑った。声も無く、目も口も鬼のように広がっていた。
「階段の上に誰かいただろ?」
「だれも……」
「正直に言っていいんだぞ、怖くないから」
お父さん……鬼が笑っているよ。
「足が滑って、落ちた」
こんなに近くに鬼がいるのに、お父さんは気づかないんだね。
「くそっ」
「ほうら、私じゃないい」
こんな時だけ僕の言葉を聞こうとするなんて。
「もういい、寝なさい」
お父さんは決してお母さんのしたことを咎めたかったわけじゃない。ただお母さんに勝つ材料が欲しかったんだ。
お母さんのあの言い方も、夜中に僕が外にいたことも、おかしいはずなのにお父さんは無かったことにした。
血だらけの僕への言葉も、何もなかった。
だから「引っ越し」の原因に、僕の怪我は関係ない。
学校からマンションに荷物を取りに行く。けれど僕のものは何も無かった。お母さんは、初めて会った日と同じで背中を向けている。
「行くから」
「……そう」
お父さんと「ここでのお母さん」との別れはその言葉だけだった。
可哀想だねお父さん。マンションの廊下から遠くの景色を眺めて泣いていたね。
鬼のことが大好きだったんだね。
いっそこの時に鬼に食われてしまってたなら、この先の苦しみを知らずにすんだのに。
僕らのことも、知らずに恐れずに「お父さん」のままいれたのにね…………。
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