邪魔者はもういないから

4/10
4人が本棚に入れています
本棚に追加
/10ページ
「塾に、戻って来てくれませんか?」  遥先生の表情に、はっきりと影が差した。一瞬の間を置いて、取り繕うような明るい声で彼女は言った。 「気持ちは嬉しいけど、それは難しいかな」 「どうしてですか?」  黒く濡れた聖也の瞳は、遥先生だけを見ていた。 「どうして、急に辞めたんですか?」  いつだってそうだった。聖也は、遥先生ばかり見ていた。そこに朝奈の入り込む隙はない。 「これから就活も忙しくなるし、講師との両立はなかなか大変そうだから」 「本当にそれが理由ですか?」  遥先生は聖也から視線を逸らした。 「向いてなかったんだよ、私。塾長にもそう言われたの」  聖也が、小さく舌打ちをした。何かの勘違いだろうと、朝奈は思う。聖也が舌打ちなんて、するはずがない。けれど次の瞬間、朝奈は猛烈な違和感を覚えた。  違和感の正体はなんだろうと考えて、聖也の両手がパーカーのポケットに突っ込まれていることに気づいた。常に礼儀正しくあれと教え込まれている聖也にとって、それはひどく不自然な態度に思えた。ポケットは、握り拳の形に膨らんでいた。 「ごめん。もう仕事に戻らなきゃ」  そう言って立ち上がった遥先生の顔がぐにゃりと歪む。目の縁に溜まった涙は、今にもこぼれ落ちそうだった。 「ほんとに、ごめんね」  朝奈は見なかったことにして、グラスの水を一気に飲み干す。無理して飲んだコーヒーの苦味が、しつこく残ったままだった。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!