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週に1度だけの移動教室。高2からグレード別に英語の授業が行われ、空き教室で授業を受けるようになった。
私の週に1度だけの楽しみ。それは移動教室の机で行われるやりとり――。
*
それは初めての移動教室での授業の時のこと。机の端に書いた私の落書き。それが発端だった。
『英語むずかしい』
心のなかで思ったことを素直に机に書いた翌週のこと。教室を移動して、いつもの机に座り授業を受けた。自分の落書きを見つけて消すのを忘れていたことを思い出す。消しゴムをペンケースから取り出して消そうとしたその瞬間、落書きのすぐ下に何か書いてあることに気付いた。
『わかる。今どこやってる?』
返事が届いていた。この空き教室は他のクラスの授業もやってるんだっけ。私は自分の落書きだけ消してさらに返事を重ねた。
『未来表現。違いわかんない』
さらに翌週。
『それな。机の中の奥の方見て』
机の中の奥?書かれている通り、空の机の中の奥に手を突っ込む。奥の奥、上の方に何かついている。手に取り机の中から出してみる。夕日のような温かみのあるオレンジ色のグラデーションがかかった大きめな付箋。
『机のやつ誰かに読まれたくないって思ったけど、やめたくないからこれで続けてもいい?』
その付箋に『いいよ』と付け足し元の位置に貼り直した。こっそりと。
そしてそれからは付箋いっぱいに文章を書いた。授業の愚痴から先生の口癖の話。所属している部活の話――。でも不思議な暗黙の了解のもと、名前はお互い言わなかったし聞かなかった。先生や友達に聞けば、他にどのクラスがこの空き教室で授業しているか聞き出せるし、座っている人もきっと割り出せる。でも、私は正体を知らないままやり取りを続けた。
しかしお別れは突然訪れる。
『来週転校します。短い間だったけど楽しかった。ありがとう』
連絡先を書きたかったけど、これだけじゃ来週のいつかも分からない。もしかしたら返事を書いても見てくれないかもしれない。私は焦った。残りの約1週間で、この人を見つけようか。というか私とこれからも関係を続けたかったら、この付箋に連絡先を書いてくれてもいいじゃないか。もしかして、もう本当にお別れをしたかったのだろうか。もやもやとした気持ちを抱えたまま、授業を終えた。最後の付箋を握りしめたまま。悩みに悩んだ。それでも――。
「やっぱり会いたい」
私は昼休みにクラスメイトに聞いて回った。「来週転校する人知ってる?」かと。私の切羽詰まった顔を見て、仲の良い友達は部活の先輩や後輩にも聞いてくれた。そしてついに放課後――。
「3年の先輩で来週転校する人がいるんだって。」
「本当!?」
「うん。受験もあるのに大変だよねって言われてて」
「どのクラス!?」
「えっとB組の……「ありがとう!」」
私は3年B組へ向かって駆け出した。名前を聞かずに駆け出した。それくらい余裕がなかった。もう帰ってしまっていたらどうしよう。
3年B組へたどり着く。まだほとんどの人が残っている。私はあの付箋を握りしめていた。夕日のような温かみのあるオレンジ色のグラデーションがかかった大きめな付箋を。
私はドアから頭だけ伸ばし、教室を見渡した。見慣れない私を気遣って、私より大人っぽい女性の先輩が話しかけてくれた。
「誰か探しているの?」
「あ、いえ、えっと……大丈夫です!」
今更名前を聞かず教室を飛び出したことを後悔した。挙動不審な私の返事に相手の先輩は困惑しながら離れて行った。申し訳ない。そして私の横を他の先輩たちが通り過ぎて行く――。
「あ」
とある男性の先輩が立ち止まった。私の手元にある付箋を見て。私にとっては意味のある大事な付箋だけど一見するとただの付箋だ。この付箋に反応するのは、どう考えたって。
「あ、あの!えっと、これ……」
「俺のこと、探してくれたんだ」
ほほ笑む先輩。全てを察した私。
「あの……迷惑でなければ……これ!」
私は連絡先と返事を書いた付箋を差し出した。受け取ってもらえるか不安で目を合わせられなかった。付箋が私の指先からすり抜けていく。そうしてようやく先輩の目を見た。先輩は付箋の内容を確認しても変わらず微笑んでいた。
「ありがとう」
「あ、はい!私も楽しかったです!ありがとうございました!」
「うん。あと、ごめんね。俺も連絡先書こうかと思ったんだけど、迷惑かと思ったら書けなくて」
「いえ!今渡せたので大丈夫です!」
「優しいね……絶対連絡するから。これからもよろしくね」
「はい!あの……先輩!」
「ん?」
「私、あなたに会いたかったです」
「うん。俺も」
私は最大の笑顔を返す。先輩も笑顔だった。
「そういえば名前何て言うの?」
「ふふ。先輩こそ」
「俺はね――」
名前すら知らなかった関係がようやく動き出した。
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