3. 暗闇に落ちる前に

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 全身を何かが柔らかく包み込む感触。真綿に包み込まれると、多分こんな感じなのだろう。  静かだ。エンジンの唸りも人々の喚き声もなく、ざわざわと葉が擦れ合う音だけがする。  風が頬に触れる。煤煙や下水の臭いではない、露を含んだ緑の匂いがする風。  感触も、匂いも、何もかもが穏やかで清潔だ。  ゆっくりと目を開ける。私は知らない部屋のベッドで寝ていた。  天井には繊細な模様を施した照明が吊り下げられており、私に向かって光を落としている。状況が掴めずぼんやりしていると、視界に黒いフロックコートを着た中年男性が入ってきた。 「よくお休みになれましたか。おかげんはいかがでしょうか」  服装からして彼が医師なのはわかるが、ここはどう見ても病院ではない。上体を起こすと、さっきまでの不調はなんだったのかと思うくらい体が軽くなっていた。 「皮膚や舌、脈の様子からして、大きな病気ではなく、過労と睡眠不足、それと食事の偏りが原因の不調でしょう。このような状態の人間には、麦飯と青菜、畜肉が効くといいます」  「人間には」なんて、面白い言い回しをする。医師は私がお礼を言う前に、頭を下げて部屋を出て行った。  ばたん、というドアの閉まる音と共に、頭が動き出す。  それと同時に全身から血の気が音を立てて引いていく。  窓の外を見る。六月の空は既に暗く、背の高い木々の向こうから六月の満月(ストロベリームーン)が白い光を放っていた。  どうしよう。工場を無断で休んでしまった。  ベッドから飛び起きる。傍らに揃えて置かれていた作業靴を履くが、手が震えて上手く紐が結べない。急がなきゃと思う気持ちが却って体の動きを鈍らせる。  早く、早く行かなきゃ。大遅刻になってしまうが、無断休みよりはまだましだろう。工場長と汽罐長に誠心誠意謝って、なんとか許してもらわないと。  体力が必要な分、比較的稼ぎのいい罐焚きの仕事は人気だ。無断で休んだりしたら、すぐ別の人に職を奪われる。  そうしたら父の病気が治った時、働く場所がなくなってしまう。あの場所は、父の誇りであり、生きがいなのに。    視界が滲む。唇を噛みしめる。それでもなんとか靴を履き終えて立ち上がると、ドアが静かに開いた。  混乱した頭の中に、更に混乱が飛び込んでくる。  入ってきたのは鴻君だった。  学校ではいつも寸分の隙もない身なりをしているが、今は袖をまくって着崩したシャツ姿だ。彼は私と目が合うと大きく息をついた。 「ああ、よかった」  小走りで私に向かってくる。何がどうなってこうなって、何をどうしたらいいのかわからなくなった私は、混乱の断片をそのまま口にした。 「な、んで、鴻君がここにいるの?」  そしてここはどこで、今は何時で、ここから工場へ行く道は、と押し寄せる言葉が喉に詰まる。しかし私の問いに対する彼の答えに、全ての言葉が吹き飛んでいった。 「ここ、俺の家だから」
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