44. 作業靴とデビュタントバル

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 家のことを一通り済ませた後、父のお見舞いに行った。  すっかり慣れ親しんだ独特の匂いの向こうに父がいる。父は私を見て、少し悲しそうに微笑んだ。 「瑠奈、昨日で高等中学を卒業だったんだろ。おめでとう。偉いなあ」 「ありがとう。やっぱし首席は無理だったんだけどさ、いっぱい勉強できたし、楽しかったよ。でさ、もう学校ないし、明日っからは昼夜ぶっ通しでバリバリ働くよ」  私がそう言って力こぶを作ると、父は悲し気な微笑みを浮かべたまま俯いた。 「瑠奈」  肉の削げ落ちた、火傷だらけの大きな手を握る。 「もうな、お父ちゃんのことはいいから。罐焚きもやめて、これからは自分のやりたいことだけをやんな。ごめんな。今まで、ありがとよ」  病室のよどんだ空気に声が溶ける。私は思わず声を張り上げた。 「何言ってんだよお父ちゃん。そんなことしたら、お父ちゃんがあの工場に帰れなくなるよ」 「だから。もう、いいんだよ」  全てが抜け落ちたような笑みを向ける。 「瑠奈は鴻様のお坊ちゃんと良い仲なんだろ。それなのに、こんな親父のために苦労するこたあねえ。お父ちゃんだって、自分がお(めえ)の邪魔になりたくねんだよ」  父の言いたいことはわかる。おそらくずっと、その考えを抱いていたのであろうことも知っている。  それでも私は、ここが病室であることも忘れてさらに声を上げた。 「お父ちゃんが元気になるまで、私、罐焚きはやめないよ。ねえ、何度も言っているじゃない。私の『魔法の』……いや、『タカナシエンジン』は、時代を変えるんだよ。自分の大切な人を放り投げるような奴が、世の中の人を幸せにするものを作れるわけがないよ!」  金策とか、将来の不安とか、全てを振り払うように父に向かって指をさす。 「見ていてよ、お父ちゃん。もうすぐ私たちの会社が動き出す。それと同時に私はエンジン開発を始めて、一年後には完成させる。その間にお金を貯めて、お父ちゃんに手術を受けてもらう。そして会社はどんどん大きくなって、タカナシエンジンはどんどん売れて、何十年後かには自動車から大型船まで動かすようになって、やがて『タカナシ』は人名じゃなくて、エンジンの種類を指すものだと思われるようになるから」  私の大声を聞いて看護人が飛んできた。  声を落とし、父に微笑みかける。 「私はお父ちゃんに、そんな世界を見せるから。そうしたらさ、ご褒美に、でっかい綿あめを買ってよ」
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