0. 秘密の抱擁

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 どれほどの時が過ぎただろう。やがて朔夜の体の震えが治まり、熱がゆっくりと引いていくのがわかった。  もとの形を取り戻した手が、力なく垂れ下がっている。変身で消耗したせいか、浅い眠りへと入ったようだった。  艶のある砲金色(ガンメタリックグレー)の髪が額に張り付いている。緩やかなカーヴを描いた長い睫毛の上に、汗が一粒零れ落ちた。  ハンカチを取り出し、彼の額に浮かんだ汗を拭う。軽く押さえるように、そっと。  いつも自分がするように、ごしごしとなんて拭けない。だって彼の肌はあまりにも滑らかできめ細かくて、ハンカチを持つ自分の手とは全然違うから。  いや、いいのだ。恥ずかしくなんかない。赤く腫れた肉刺(マメ)と火傷だらけの私の手は、働き者の手だ。工場のおっちゃん達も、みんな褒めてくれる。  だから、同級生の女子達みたいな、白くて柔らかい手になりたいなんて思っていない。  思ってなんかいないんだから。 「朔夜あ。起きなよう。午後の授業始まっちゃうよお。あ、このまま寝とく? んで、私に学年一位の座を譲り渡しちゃう?」  その言葉に、彼がゆっくりと目を開いた。けれどもまだ表情が沼底のように濁っている。だから顔を近づけ、片頬を吊り上げて笑い、煽ってみた。  目が合う。すると夜空色の瞳が挑むような輝きを放ちはじめた。 「いや。午後は瑠奈の苦手な歴史だよね。だから出席して二位との差を更に広げる」 「そうはさせるか。次こそは負けないからね」  勢いよく立ち上がり、深緑色の制服のスカートをばさばさと広げる。  硬い生地でできた(くるぶし)丈のペティコートや、鯨髭が何本も入った頑丈なコルセットがないと着られない制服は、動きにくいことこの上ない。この学校に通う「社交界の(はな)予備軍」たちは、普段もこういう服を着ているのだろうが、あいにく私は庶民だ。長時間屈んでいたせいで痺れた脚を大きく前に踏み出した時、スカートの裾を思いきり踏んづけてつんのめった。  顔面が勢いよく床に迫る。  目をつぶる。  だが私の体は倒れることなく、ふわりとあたたかさに包まれた。  朔夜が、後ろから抱きかかえるように支えてくれた。 「危ない」  ただそれだけの言葉が、私の首筋を撫でる。言葉の振動が首筋を通って心臓を強く掴む。  私を支える腕の感触が、鯨髭や紐で縛り上げた体に伝わる。 「ありがと。ごめんねえ。さ、行こっか」  自然な態度が取れていると信じつつ、教室へ向かう。  火照った頬の色を悟られないように、彼の前を歩く。  あの日の出来事を思い出す。  あの日、あんな目に遭わずに、彼が人狼であるということを知らなければ。  私たちはきっと、ただの「級友でライバル」という間柄のままだったろう。  そしてその関係は、きっと卒業まで続いたはずだ。    彼への想いを、胸の奥深くに秘めたまま。
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