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どれほどの時が過ぎただろう。やがて朔夜の体の震えが治まり、熱がゆっくりと引いていくのがわかった。
もとの形を取り戻した手が、力なく垂れ下がっている。変身で消耗したせいか、浅い眠りへと入ったようだった。
艶のある砲金色の髪が額に張り付いている。緩やかなカーヴを描いた長い睫毛の上に、汗が一粒零れ落ちた。
ハンカチを取り出し、彼の額に浮かんだ汗を拭う。軽く押さえるように、そっと。
いつも自分がするように、ごしごしとなんて拭けない。だって彼の肌はあまりにも滑らかできめ細かくて、ハンカチを持つ自分の手とは全然違うから。
いや、いいのだ。恥ずかしくなんかない。赤く腫れた肉刺と火傷だらけの私の手は、働き者の手だ。工場のおっちゃん達も、みんな褒めてくれる。
だから、同級生の女子達みたいな、白くて柔らかい手になりたいなんて思っていない。
思ってなんかいないんだから。
「朔夜あ。起きなよう。午後の授業始まっちゃうよお。あ、このまま寝とく? んで、私に学年一位の座を譲り渡しちゃう?」
その言葉に、彼がゆっくりと目を開いた。けれどもまだ表情が沼底のように濁っている。だから顔を近づけ、片頬を吊り上げて笑い、煽ってみた。
目が合う。すると夜空色の瞳が挑むような輝きを放ちはじめた。
「いや。午後は瑠奈の苦手な歴史だよね。だから出席して二位との差を更に広げる」
「そうはさせるか。次こそは負けないからね」
勢いよく立ち上がり、深緑色の制服のスカートをばさばさと広げる。
硬い生地でできた踝丈のペティコートや、鯨髭が何本も入った頑丈なコルセットがないと着られない制服は、動きにくいことこの上ない。この学校に通う「社交界の華予備軍」たちは、普段もこういう服を着ているのだろうが、あいにく私は庶民だ。長時間屈んでいたせいで痺れた脚を大きく前に踏み出した時、スカートの裾を思いきり踏んづけてつんのめった。
顔面が勢いよく床に迫る。
目をつぶる。
だが私の体は倒れることなく、ふわりとあたたかさに包まれた。
朔夜が、後ろから抱きかかえるように支えてくれた。
「危ない」
ただそれだけの言葉が、私の首筋を撫でる。言葉の振動が首筋を通って心臓を強く掴む。
私を支える腕の感触が、鯨髭や紐で縛り上げた体に伝わる。
「ありがと。ごめんねえ。さ、行こっか」
自然な態度が取れていると信じつつ、教室へ向かう。
火照った頬の色を悟られないように、彼の前を歩く。
あの日の出来事を思い出す。
あの日、あんな目に遭わずに、彼が人狼であるということを知らなければ。
私たちはきっと、ただの「級友でライバル」という間柄のままだったろう。
そしてその関係は、きっと卒業まで続いたはずだ。
彼への想いを、胸の奥深くに秘めたまま。
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