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彼は私の前に立つと、背後の男子たちに少し目を向けた後、私に向かって口を開いた。
「先月よりも点差を詰められたね。もし俺が一問でもケアレスミスしていたら、順位が逆だったかもしれない。まあ俺は、そんなミスしないけど」
腰に手を当て、挑むような目つきで煽られる。私は背筋を伸ばし、負けじとその目を見返した。
「そんなの人間だから分かんないじゃない。次こそは負けないからね」
さあなんて言い返してくるか、と身構えていると、彼は腰から手を離し、ふっと笑顔を見せた。
「いや、今回の負けは俺だよ」
切れ長の涼やかな目が柔らかく細められる。
「高梨さんは働きながら勉強しているんだろ。勉強に掛けられる時間を考えたら、俺の負けだ。高梨さんはいつも本当に凄いと思う」
邪気の欠片もない瞳でそんなことを言われると、返事のしようがない。口を開いたまま出てこない言葉をひねり出そうとしていると、あの男子たちはもごもご言いながらどこかへ消えてしまった。
「あ、え、うん。どうも。えっと、じゃ、ご、ごきげんよう」
頭を下げ、教科書が入った鞄と作業服が入った頭陀袋を抱えて、そそくさと教室を後にする。
鴻君はまだ何かを話したそうにしていたけれども。
校舎を出てから、ため込んでいた息を思いきり吐いた。
ペティコートを蹴とばすようにして早足で歩く。頭の中に、耳の奥に、鴻君の笑顔と声が張りついて離れない。
自動車が私を追い越す。その煙突から吐き出される蒸気に紛れ込ませるように、もう一度息を吐いた。
きっと私は今、悔しがっているのだ。
一位の人に慰められて、悔しいのだ。
だからこんなに鼓動が早くなるし、頬が火照るし、笑顔を繰り返し思い浮かべてしまうのだ。
そのまま勢いに任せて歩き続け、錬鉄製の優雅な装飾が施された校門をくぐった後、ふと足が止まった。
今まで、煽られることはあってもあんな言葉を掛けてもらったことはない。
考えてみると、凄くありがたいタイミングだった。あのおかげで男子たちの嫌な言葉が止まったようなものだから。
勿論、その辺は偶然なのだろうが。
だって、鴻君が私を助ける理由なんてないし。
そもそも私の席と鴻君の席は離れているから、鴻君の耳がどんなに良くても会話が聞こえるわけがないし。
首を振り、頭陀袋を抱え直し、再び歩く。
通りの向こうに、地下鉄道駅の金色の煙突が見えてくる。
これから真空チューブ地下鉄道に乗って工場へ行く。
これから私は、女学生ではなく罐焚き婦になるのだ。
あらゆる想いを胸の奥に深く深く押し込め、金色の煙突目指して歩く。
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